ビブロスのオベリスク神殿 オベリスク全リストへ戻る

大きな地図で見る
現在地:  レバノン、ビブロス、ビブロス古代遺跡群
北緯
34°07'08.1"(34.118920) 東経35°38'50.1"(35.647247)
創建王:  エジプトの影響を受けてフェニキア人が制作したものと思われる。
高さ:  オベリスクは26本あり本体部分の高さは約50cm~2.5m
石材:  不明

場所について:
 レバノンにはユネスコの世界遺産に登録されている場所が5ヶ所あり、そのうち古代遺跡はビブロス、バールベック、アンジャル、ティルスの4ヶ所で共に1984年に登録されています。ビブロスは最古のフェニキア人の町の一つとされていて、新石器時代から人が住み、紀元前5000年ごろから人が住み続ける世界最古の町の一つとしても知られています。ビブロスの東方の山岳地帯には、古代にはレバノン杉の森が広がっていましたが、ビブロスはレバノン杉の積み出し港となり、多くのレバノン杉材が森林資源の乏しい古代エジプトに運ばれました。カイロ郊外のギザにある、紀元前26世紀のクフ王のピラミッドの横には、全長42mの「太陽の船」が埋められていましたが、この太陽の船にもレバノン杉が多用されています。また、ミイラ作りに欠かせない香油はレバノン杉から採取されるので、杉材と並ぶ貴重な輸入品であった筈です。こうしてビブロスは古代エジプトとの交易の中心地となり栄えました。エジプトの官吏も駐在していたと考えられており、古代エジプト文明の影響も強く受け、ヒエログリフの碑文のある遺物も発見されています。
 フェニキアは古代の地中海で活躍した海洋民族でもありました。古代ギリシャとの交易も行われ、ギリシャ語のパピルス(英語のpaperの語源)は、ビブロスから持たされた物であることに由来するという説と、逆にパピルスの積出港であるためにビブロスという地名で呼ばれるようになったという説があるようです。さらにビブロスは本を意味するビブリオンの語源となり、聖書を意味するビブルに繋がると言われています。

古代遺跡群の入口にある十字軍の城砦跡
古代遺跡群の入口にある十字軍の城砦跡


十字軍の城砦から見た古代遺跡群の一部(西側)
(写真1)十字軍の城砦から見た遺跡群(西側)
地中海に面した突堤の遺跡などが見える


十字軍の城砦から見た古代遺跡群の一部(西側)
(写真2)十字軍の城砦から見た遺跡群(南西側)
Baalat Gubalの神殿の遺跡などが見える


十字軍の城砦から見た古代遺跡群の一部(南側)
(写真3)十字軍の城砦から見た遺跡群(南側)
中央から左上の所にオベリスク神殿が見える


 紀元前1世紀にビブロスは共和制ローマの支配下に入り、ローマの市民権が与えられたことからローマ人の町として栄えました。ビブロスには古代ローマ時代の円形劇場の遺跡も残っています。12世紀には十字軍の拠点となり巨大な城砦が残っています。
 ビブロスの古代遺跡の旅行記のサイトは多いのですが、系統的に遺跡が紹介されているサイトは無いようなので少し詳しく紹介します。
 ビブロスの古代遺跡の入口に立っていた案内板の写真を掲載しておきます。図は北が下側になっているのでややこしいのですが、西側が地中海に面した1辺が500~600mの三角形の地域が遺跡として保存されています。以下の説明の①から⑯の数字は案内図の番号に準じています。
 ビブロスの古代遺跡はフェニキア、古代ローマ、ペルシャ、十字軍の遺跡で構成される複合遺跡です。長い歴史を持つ町なのですが、度重なる異民族による支配を受けています。たとえば、紀元前2150年ごろにはアムル人に侵攻され、それまでに存在していたフェニキア人の神殿は破壊されました。失われた古代の遺跡の上には後代の建物が建てられていて、現在見ることができる遺跡の下にさらに古代の遺跡が埋まったままになっている場所もあります。


クフ王の太陽の船

(写真4)クフ王の太陽の船(2008年8月筆者撮影)

 北側の遺跡の入口を入ると、岩石を積み上げた擁壁の跡とか、多数の石の円柱の破片などが発掘されたまま散らばっているところ①を歩いて行きます。説明はありませんが時代的にはローマ時代よりも後代の遺構と思われます。次に目に入るのは十字軍の城砦③です。12世紀に十字軍によって建てられた石積みの城砦は非常に保存状態が良く、城砦の上まで階段で登ることができます。城砦の上からの眺望は非常に美しく、ビブロスの古代遺跡や地中海、ビブロス周辺の高級住宅街などを見ることができます。
 写真1は十字軍の城砦の上から西側を撮影したものです。写真の中央部に写っている凹凸がある石積みの壁が②のNorthern Fortificationsと書かれているものです。紀元前25世紀頃の青銅器時代にフェニキア人によって作られた城壁です。その南側(写真の左側)の壁で細かく区切られたエリアが④の北居住区と呼ばれている場所でフェニキア人の住居跡です。その奥の石造りの円柱が並んでいる所がありますが、⑥のColonnaded Streetと書かれた場所で、1~3世紀頃のローマ時代の遺構です。このそばに円形劇場が残っていたのですが、さらに古い時代の遺跡の発掘作業のために円形劇場は海側に移築されて保存されています。作り直されているのできれいに残っていますが、直径が20mほどの半円形のもので規模は大きくありません。
 列柱の通りの奥、写真では分かりにくいのですが、フェンスで囲われたエリアがあります。Royal Necropolisと呼ばれる場所⑤で、ここではフェニキアの王族の墓が9基発掘されています。その中で最も貴重なのは紀元前1000年頃のアヒラム王の墓で、そこで発掘された石棺はレバノン国立博物館に展示されています。フェニキア文字の碑文が彫られており、フェニキア文字が残る遺物としては最古のものです。フェニキア人は地中海沿岸地域の各地と交易を行い、フェニキア文字は地中海沿岸地域や現在の中近東地域に広まりました。ギリシャ文字や現在のアルファベットはフェニキア文字の流れをくむもので、D、K、Mなどはフェニキア文字の原型を留めています。また、ここには紀元前19世紀のアビシェム王の石棺が洞穴状に発掘された状態で展示されています。レバノン国立博物館に展示されているヒエログリフが彫られたオベリスクはこの王のものです。
 ④の北居住区の南側にはビブロスの守護神の女神のBaalat Gubalの神殿の遺構⑦があります。写真2の右側の四角形の場所がそれです。紀元前2700年頃に建てられ紀元前2300年ごろまで使われていたようですが、残念ながら石組みの擁壁の基壇などが残っているだけですので、神殿の原形を想像することはできません。この神殿の奥の海岸に近いエリアはPrehistoric Quarter⑧です。ビブロスの遺跡では最も古い先史時代の地区という意味と思われます。またこのエリアの中央には、赤い屋根の「伝統的なレバノンの家」という近代の建物が残されていますが、閉鎖されていて中に入ることはできませんでした。
 「伝統的なレバノンの家」の東側にはTower TempleとGreat Residenceと呼ばれている遺跡⑨があります。写真2の赤い屋根の家の左側の石組みで造成されている場所です。紀元前2700年頃の遺跡らしいですが擁壁以外は土台の石材しか残っていません。さらにその東側、写真2の左上の海岸に近いところにはProto-Urban Settlement⑩という場所があります。Proto-Urban periodは青銅器時代に入る前の紀元前3000~3200年の期間ですので、もしこの意味でProto-Urbanという単語が使われているのでしたら、非常に古いものということになります。また、写真2ではProto-Urban Settlement⑩の手前に高い壁が作られていて、その横は窪地になっているところが見えます。窪地の周囲にも石組みで擁壁が作られていますが、ここが案内図でSpring⑪と書かれている場所です。おそらく自然に水が湧き出ていて水汲み場として使われていたのでしょう。


ペルシャの要塞

(写真5)アケメネス朝ペルシャ時代の要塞跡
緻密に組み上げられた石垣が残っている。

 次に、さらに東側の写真3に写っている遺跡について説明します。写真3の中央の木が数本かたまって立っている場所の左側と木の裏側は神殿になっていて、「L字型の神殿」⑫と呼ばれています。この神殿は石組みが丁寧に作られており、非常にきれいに残っていますが、紀元前2600年頃に建てられたものです。そしてL字型の神殿の南側、写真3では左上にあるのが目指す「オベリスク神殿」⑬です。石を積み上げた塀で囲まれた中にオベリスクが立っているのが見えます。オベリスク神殿は、フェニキア人がアムル人による支配から脱したのちの、紀元前1900年頃から紀元前1600年頃までの遺物で構成されています。
 この他、⑭の北東ゲートと書かれている一帯にはローマ時代や十字軍の頃と思われる円柱の破片や、井戸など様々なものが雑然と並んでいます。⑯のNympheumと書かれた一帯もローマ時代の遺構と見られ、太い石の円柱の破片などが転がっています。道は石板が敷き詰められて舗装されています。筆者は写真を撮ってきませんでしたがbeirut.comというサイトに映像があります。⑮のペルシャの要塞は大きな岩を整形して積み上げた石垣が残っています。紀元前538年から紀元前332年のアケメネス朝ペルシャの統治下の頃に作られたものです。(写真5)
 ビブロスの大規模な発掘はフランスの委任統治領であった1920年代から1970年代の前半まで行われていました。1926年から1975年まではフランス人のモーリス・デュナンがビブロスの発掘を率いました。フェニキア時代の遺跡の上には民家が建っていた地域もあり、民家を立ち退かせて発掘が行われました。ビブロスの遺跡では大量の出土品が得られましたが、大半がベイルートのレバノン国立博物館に収蔵されています。レバノン国立博物館では収蔵品の1%強しか展示されていないので全貌は分かりませんが、青銅器時代のフェニキア人に関する展示品はビブロスから出土したものが中心になっていました。

行き方:
 ビブロスはベイルートの北方約40kmに位置している地中海沿いの都市です。ビブロスはギリシャ語の古代の地名で、現地ではジュベイルというアラビア語の地名で呼ばれています。ビブロスへは国道が整備されており、順調に行けば1時間もかかりませんが、ひどく渋滞する時もあるようです。
 ベイルートからジュベイルに至る国道沿いの地域はレバノン政府軍の統治下にあり、治安は比較的に良好で、途中には危ない雰囲気の地域はありません。ただ、それでも現地の旅行社が手配する専用車かパッケージツアーに参加するのが無難でしょう。ベイルートからはトリポリ(ダラーブルス)行きのバスが出ていますので、バスでもジュベイルまでは行けるようです。
 2015年5月の時点では、この地域は外務省の危険情報では「渡航の是非を検討してください。」のレベルに指定されていました。2015年9月には外務省の注意勧告の表現が変わり、「不要不急の渡航は止めてください」になっています。隣国シリアが内戦状態にあることから、レバノンを訪れる外国人観光客は極めて少なく、世界遺産に指定されている観光地でも外国人観光客はほとんど居ません。このため外国人が個人で旅行をするためのインフラは、あまり整っていません。

オベリスクについて:
 "Temple of the Obelisks"、何という魅力的な言葉の響きでしょうか。オベリスクに惹かれた筆者は、このオベリスク神殿の存在を知った時に、是非とも一度は訪れてみたいという強い欲求に駆られました。オベリスクが林立し、オベリスク自体が中心的な存在となっている神殿は他には例がありません。
 レバノンでは長らく内戦状態が続き、現在は隣国のシリアが内戦状態にあることから、レバノンは危険勧告が出ている国ですが、シリアの内戦の先行きによっては、さらに情勢が悪化して到底行くことができなくなる可能性も考えられるので、行けるうちに行って来ようと思い立ったのでした。


TEMPLE OF THE <<OBELISKS>>

At the end of the 3rd millennium B.C., the so-called "Obelisks Temple" was built on the ruins of the Early Bronze Age "L" shaped temple. It was uncovered by the excavators and reconstructed on its present site.
The outer wall of the sanctuary followed almost the same plan as the courtyard of the earlier temple. North of the "L"-shaped Temple, the workshops most probably continued to be in use in the new sanctuary.
The place of worship, accessible from the east by a staircase, consists of an antechamber and a cella (holy place). The latter shelters the pedestal on which stood the divinity.

Obelisks or betyls, which where the symbols of the divine in the local religions, stood in the court-yard. A hieroglyphic inscription on one of them - exhibited in the National Museum of Beirut - mentions the god Reshef, god of war and also god of nature and fertility, to whom the temple was probably dedicated. Niches for statuettes, basins and jars for cleansing and sacrifices, complete the external religious installations.
A rich variety of offerings were buried in the sanctuary. They consist of gold and bronze weapons as well as a countless number of human and animal figurines.


オベリスク神殿の案内板の英語の説明文

 オベリスクというと古代エジプトと古代ローマの物が有名ですが、レバノンのオベリスクについてはあまり語られることがありません。おそらく古代エジプトや古代ローマの愛好者にとっては、フェニキアの遺跡はいささか異なる分野になるからでしょう。しかしインターネット上を探してみると、レバノンでは主要な観光地の一つとなっていて、世界遺産に指定されている遺跡でもあることから、オベリスク神殿の写真や訪問記はそれなりにあります。
 事前に訪問記や写真などを見ていましたので、オベリスク神殿がさほどスケールが大きなものではないことは分かっていましたが、実際に現地に行って見ると、予想よりもさらに小規模な遺跡で、いささか拍子抜けの感は否めませんでした。神殿というよりは荒れ果てた墓地のような感じです。そのうえ、他のフェニキアの遺跡の多くは目ぼしい物が残っていないので、自由に立ち入ることができるのですが、オベリスク神殿はフェンスで囲まれていて、錆付いた南京錠がかかっているので中に入ることができません。長らく開けられた様子も無く神殿の敷地内は雑草が伸び放題になっています。
 オベリスク神殿の遺構を囲むフェンスは一辺が約25mで、全体はゆがんだ四角形になっています。100mほど離れた十字軍の城砦の上から見下ろした写真が全体像が分かりやすいと思います。城砦とオベリスク神殿の位置関係から、北北西の方向から見下ろした状態になります。また、オベリスク神殿の東側にある丘状になった遺跡に登って撮影した北東方向からの写真でも全体像が分かると思います。
 オベリスク神殿の遺跡の横には案内板が立っています。その英文を引用しておきます。私の英語力では分かりにくい文章なのですが、この文章は多くの情報を与えてくれます。まず、現在のオベリスク神殿の遺跡は移設されたものであることです。元々のオベリスク神殿の遺跡の下に、より古い時代の「L字型の神殿」の遺構が発見されたことによって、オベリスク神殿は発掘調査後に移設されて現在の形に整備されたことが記述されています。
 オベリスクの大きさはまちまちです。目視で推測した値ですが、小さいものは50cmほど。本当に小さく、これでは立ち入り禁止にしないと持ち出されかねない大きさです。反対に最も高いものは2.5mほどあります。中に入れないので死角が多く、小さい物を見落とさずに数えることが難しいのと、そもそもオベリスクなのかステラ(石碑)なのか石柱なのか判然としないものも多く、正確な数がわからないのですが、筆者はオベリスクと明確に言えるものは25本前後ではないかと考えていました。帰国後に再度調べていましたら、ユネスコの世界遺産の日本語サイトのビブロスの項目には「エジプト時代の26本のオベリスク」と記載されているのが見つかりましたので、当サイトでも総数を26本としたいと思います。ただし、レバノン国立博物館に展示されているアビシェム王のオベリスクが26本に含まれているのかどうかは分かりません。おそらく含まれておらず、現地に残っているのが26本だとは思いますが定かではありません。(ユネスコの英語サイトには26本の記述は無いので気付かずにいました。)
 大きさだけでなく、オベリスクの石材も均一ではなく、さほど損傷していないものもあれば、水成岩を用いたために酷く侵食を受けて無残な姿をさらしているものもあります。現在、レバノン国立博物館に収蔵されて展示されている紀元前19世紀のアビシェム王のオベリスクは、オベリスク神殿のオベリスクの中では古い時代に属するものです。このオベリスクにはヒエログリフで「ヘリシェフ・ラー神によって愛されし者」としてアビシェム王の名前が書かれていますので、エジプトの太陽神であるヘリシェフ神との関連が示されていますが、オベリスクが捧げられた神殿の信仰の対象は、カナン人やフェニキア人などによって古くから信仰されていたラシャプ(レーシェフ)神ではないかと推定されています。ラシャプ神は疫病や戦争に対する守護神で、中王国時代のエジプトでもレシェフ神という名前で広く信仰されました。なお、オベリスク神殿の案内板では国立博物館のオベリスクに記述されている神もラシャブ神と書かれていますが、実際には上記の文章です。また、文献を調べてみるとレーシェフ神よりもラシャブ神と考える方が妥当であるとの学説もあるようです。
 ビブロスの遺跡の案内板の写真を注意深く見ていただくと分かるのですが、オベリスク神殿はTemple of the "Obelisks"とオベリスクの個所が引用符付きで表現されているのです。おそらくこれは、この案内板を監修した学者が、オベリスク神殿に立っているものと古代エジプトのオベリスクとを区別して意識しており、「オベリスク状の物」とか、「通称オベリスクと呼ばれているもの」とかと考えている証左のようにも思われます。さらにオベリスク神殿の案内板には、より明確にObelisks or betylsと書かれています。betylはあまり見かけない単語ですが、baetylusとかbethelなどとも記述され「神聖な石」の意味です。Wikipediaの説明によればギリシャのOmpharosが例に挙げられています。
 オベリスク神殿の信仰の対象が太陽神ではないとすれば、太陽神に捧げられた古代エジプトのオベリスクの範疇に含めるのは無理があるかも知れず、「オベリスク状の物」とする方が妥当なような気もします。そのような観点から当サイトでもビブロスのオベリスク神殿は参考として記載することにしました。

撮影メモ:
 林立するオベリスクの姿は確かに感動的でしたが、古代エジプトやその直系の子孫の古代ローマのオベリスクを見慣れた筆者には、やはり異質なものに感じられ、違和感は否めませんでした。なお、四方のフェンスのうち西側の一ヶ所だけですが、ドラム缶が意図的に横に置いてあって、人がよじ登ってフェンスを乗り越せるように細工してありました。強い誘惑に駆られたのですが、外国人観光客が全く居ない中で係員に捕まったりしたら、さぞかし面倒なことになるだろうと思い不法侵入するのは断念しました。

古代遺跡群案内図

オベリスク神殿の案内板
オベリスク神殿の案内板

十字軍の城砦(北北西)から撮影
十字軍の城砦(北北西)から撮影
北東側の遺跡から撮影
北東側の遺跡から撮影

東側の祭壇正面から撮影
東側の祭壇正面から撮影
南側から撮影
南側から撮影

西側から撮影
西側から撮影

2015年5月4日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org