エジプト博物館のオベリスク (9本) オベリスク全リストへ戻る

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現在地:  エジプト、カイロ、タフリール広場
北緯
30°02′50.2″(30.047272) 東経31°14′01.1″(31.233638)
創建王:  ハトシェプスト女王(新王国第18王朝,在位,紀元前15世紀)
高さ:  ピラミディオン部 2.75メートル
創建王:  ラムセス2世(新王国第19王朝,在位,紀元前13世紀)
高さ:  上部 約2.6メートル
創建王:  ラムセス2世(新王国第19王朝,在位,紀元前13世紀)
高さ:  上部 約1.7メートル
創建王:  ラムセス2世(新王国第19王朝,在位,紀元前13世紀)
高さ:  上部 約2.7メートル
創建王:  ラムセス4世(新王国第19王朝,在位,紀元前12世紀)
高さ:  上部 1.56メートル
創建王:  トトメス3世(新王国第18王朝,在位,紀元前15世紀)
高さ:  断片 約3.7メートル
創建王:  王名不詳(末期王朝あるいはプトレマイオス朝か?)
高さ:  断片 約1.5メートル
創建王:  ネクタネボ2世(末期王朝時代第30王朝,在位,紀元前4世紀)
高さ:  下部 約1.8メートル
創建王:  アマシス王(イアフメス2世)(末期王朝時代第26王朝,在位,紀元前6世紀)
高さ:  下部 約1.3メートル

場所について:
 カイロのエジプト博物館は、エジプト考古学博物館とかカイロ博物館と記載されていることが多いのですが、英文名称は単にThe Egyptian Museumなので、エジプト博物館の方が適切だと思います。
 エジプト博物館はフランス人の考古学者のオギュスト・マリエットが倉庫を借りて設立したのが始まりと言われています。その後、収蔵品の増加と共に1891年にはギザに移転し、1902年に現在の博物館が完成しました。なお、オギュスト・マリエットが発見した第17王朝のネブケペルラー・アンテフ王(アンテフ7世)のオベリスクは、エジプト博物館に輸送される際に無くなってしまったという逸話があります。
 1902年の建設当時、エジプト博物館では35,000点の収蔵品を展示する予定でした。しかしその後収蔵品は増加の一途をたどり、現在の収蔵品は20万点とも25万点とも30万点とも言われ、エジプト博物館の当事者にも詳細な数は把握できていないようです。ルクソール美術館やアスワンのヌビア博物館など、新たに地方に展示施設が建設されたことによって、エジプト博物館の収蔵品の一部は新設の博物館に移されていますが、それでも膨大な数の収蔵品が展示されずに眠っているものと思われます。
 なお、エジプト博物館は「未整理の巨大な倉庫」と酷評されるほど、膨大な数の展示品が雑然とならべられている印象を受けます。展示品の説明も無いものが多く、品名、出土地、時代区分だけの説明がタイプ印字されただけの変色した紙片がついていればマシなほうです。ツタンカーメンの黄金のマスクや、クフ王の母のヘテプ・へレスの遺物、プスセンネス1世の遺物などは特別な展示スペースが設けられていますが、メリハリなしに大量の展示品が並んでいる場合が多いので、優秀なガイドが付いていないと、貴重な遺物に気付かずに見逃す可能性も多いのです。エジプト博物館を参観されるのであれば、事前に松本 弥氏の「カイロ・エジプト博物館・ルクソール美術館への招待」を一読されておくことを勧めます。
egyptian_museum.jpg  エジプト博物館の庭には多数のオベリスクの断片が展示されています。一切修復らしいことは行われておらず、単に置いてあるだけといった状態の展示方法です。説明も一切ありません。このため筆者も色々な文献やウェブサイトを調べたのですが、素性が判明したものはわずかでした。
 なお、2018年5月にはギザのピラミッドの近くに大エジプト博物館が完成する予定で、完成後には10万点の展示品が現在の博物館から移されることになっています。10万点といっても半数以下ですから、大エジプト博物館がオープンした後に、どのような展示が行われるのかは予想ができません。また、近年のエジプトの政治情勢の混乱によって大エジプト博物館への移転がさらに遅れる可能性もありますが、いつかは確実に移転します。今は直接目にできる展示品がガラスケースに収められたり、非公開になる可能性もありますから、大エジプト博物館への搬出が始まる前に、現状の博物館を見ておくほうが良いかもしれません。
 なお、2014年8月にツタンカーメンの黄金のマスクの顎鬚の部分を係員が折ってしまい、エポキシ接着剤で貼り付けていたという事件が起きました。2015年1月にその事実が発覚し、ドイツの専門家によるきちんとした修復作業が行われていた数ヶ月間は、ツタンカーメンの黄金のマスクは公開が中止されていました。2015年12月17日に修理が終った黄金のマスクは再び公開されましたが、この時にエジプト博物館の内部の展示品が1ヶ月間に限って無料で撮影ができる措置がとられました。筆者が再訪した2016年4月には無料では撮影できなくなっていましたが、50EGPのカメラ持ち込み料金を支払えば撮影が可能となっていました。エジプト博物館は長らく写真撮影禁止の状態が続いていましたので、これは朗報だと思います。このような措置が今後も続くのかどうか全く予測がつかないところがエジプトの難しいところなので、大エジプト博物館への展示品の移送が本格化する前に訪れておく価値は十分にあると思います。

行き方:
 タフリール広場には地下鉄のサダト駅があります。タフリール広場から北側に200mほど行けばエジプト博物館の鮮やかなレンガ色の建物が見つかるはずです。また、博物館の北側は10月6日橋のたもとのロータリーになっています。ピラミッドのあるギザ地区やカイロ空港周辺のホテルからですと、カイロ市内に来るのが大変ですが、カイロ市内のホテルであれば、エジプト博物館に行くのに不便を感じることは無いでしょう。カイロ市内ではエジプト博物館は最も著名で重要な観光名所ですから、この博物館を抜きにしてカイロの観光をすることは考えられません。ただ、団体旅行ですとエジプト博物館には行っても、庭を見ることができる自由時間は無いかもしれません。庭にあるオベリスクをじっくりと見るためには個人で訪れるしかないと思います。
 エジプト博物館の現在の建物は2002年に100周年を迎えたのですが、それを機会に建物の塗装工事が行われ、現在の明るいレンガ色になりました。独特な色の重厚な建物なので一度目にしたら強く印象に残ると思います。
 なお、以前は夜の7時まで開いていましたが、2014年8月に訪れたときには、観光客が激減しているためか16時に閉館となっていました。また、2012年に収蔵品が略奪されたことなどが原因と思われますが、博物館の入口付近には軽戦車が並んでいて物々しい雰囲気でした。参観者は博物館の手前で自動小銃を持った兵士の検問を受け、手荷物をチェックされました。その後2016年4月に再訪した時には軽戦車はいなくなっており、夕方は17時まで開いているようになりましたが、手荷物の検査はありますので、個人旅行者はパスポートも持参しておくほうが良いでしょう。

オベリスクについて:
 2014年の8月と2016年の4月にエジプト博物館を訪れた際に、博物館の前庭で確認できたオベリスクは7本、館内でみつけたものが2本あります。この他に立ち入り禁止になっている博物館の東側の庭にも、オベリスクの断片らしいものが2本立っているのですが、博物館の柵のさらに外側にバリケードがあって柵に近寄ることもできないため、まともな写真を撮影することもできず未確認のままになっています。

●ハトシェプスト女王のオベリスク(ピラミディオン部分)
 第18王朝のハトシェプスト女王(在位 紀元前1498~1483)が、カルナックのアメン大神殿の東側に建てた2本のオベリスクのうちの1本です。トトメス3世は後にこのオベリスクの付近に祝祭殿を建てています。オベリスクの本体部分は無く、頂上のピラミディオンの部分だけがエジプト博物館に保存されています。博物館の正面玄関のすぐ左側(西側)に置いてあります。ピラミディオンだけでも高さは2.75mもあります。4面ともにアメン神にハトシェプスト女王が貢物を捧げている図柄が彫られていたのですが、ハトシェプスト女王の死後のトトメス3世の治世下では、ハトシェプスト女王の存在が忌避されたことから、ハトシェプスト女王の姿と名前が削り取られて、その代わりに花と祭壇が彫られています。なお、対になっていたもう片方のオベリスクは、ピラミディオンの部分がアメン大神殿の東側に残っています。
 オベリスクの碑文の向きには一定の決まりがありますので、このオベリスクはアメン大神殿の東側に対で建てられていた時には神殿に向かって左側にあり、現在の北面が正面(東面)であったものと思われます。

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東面

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南面

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西面

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北面
東面および北面2014年8月4日、南面および西面2016年4月26日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●ラムセス2世のオベリスク(A)(上部)
 オベリスクの碑文から第19王朝のラムセス2世(在位 紀元前1278~1212)が作ったオベリスクであることが分かりますが、展示品の説明が無いため詳細は分かりません。最上部のピラミディオンとラムセス2世のホルス名の上部までしかない断片ですが、それでも高さは2.6mありますので、本来の高さは10m以上のオベリスクであったと思われます。筆者はこのオベリスクは、カイロ市のゲジーラ島メッサッラ庭園、つまりエジプト博物館からは600mほどしか離れていない場所に建てられている高さ13.5mのラムセス2世のオベリスクと対のものではないかと考えています。その理由は両者のピラミディオンの部分の図柄が酷似しているからです。オベリスクの碑文の対称性から見ても、このオベリスクとゲジーラ島のオベリスクがペアであったと考えて矛盾は無く、その場合にはこのオベリスクが神殿に向かって右側に立っていて現在の北面が正面にあたり、ゲジーラ島のものが左側で北面が正面であったものとなります。そうであるとすれば、このオベリスクはナイルデルタのサン・アル・ハガルにある、タニスの遺跡から運ばれてきたものであることになります。

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東面

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南面

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西面

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北面
西面は2016年4月28日、他は2014年8月4日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●ラムセス2世のオベリスク(B)(上部)
 ピラミディオン部にある誕生名のカルトゥーシュからラムセス2世(在位 紀元前1278~1212)が作ったオベリスクであることは確かですが詳細は分かりません。碑文は各面2行でホルス名、即位名、誕生名と続いていますが、頂上部に誕生名のカルトゥーシュだけがあること、西面だけは2行の碑文が外側向きに左右対称であることなど、このオベリスクにはユニークな点が多くあります。タニスには1面の碑文が2行のピラミディオンの断片がありますが、こちらは2行が同一方向に向いているため、このオベリスクとは対ではありませんでした。現存する部分の高さは約1.7mですが、太さから見て元の高さは4~5m程度ではなかったかと思います。

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西面

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北面

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東面

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南面
西面および北面2014年8月4日、東面および南面2016年4月26日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●ラムセス2世のオベリスク(C)(上部)
 2014年にエジプト博物館を訪問した時には見落としてしまったオベリスクです。このウェブサイトの読者の方からご指摘を頂き、2016年4月に再訪して確認してきました。このオベリスクもカルトゥーシュからラムセス2世(在位 紀元前1278~1212)が作ったオベリスクであることは確かですが、やはり詳細は分かりません。このオベリスクの碑文もかなりユニークです。南面のピラミディオン部には赤冠をかぶったホルスが向かい合った彫刻があり、かわりにホルス名は無く、それ以外の面はホルス名、即位名、誕生名と続いています。また南面と北面けは2行の碑文が外側向きで左右対称です。上記のラムセス2世のオベリスク(B)とも碑文の構成が異なっているのですが、碑文が鮮明に見える上記のオベリスク(B)の南面と、このオベリスクの西面の碑文を比べると彫刻の雰囲気が似通っていますので、2本は左右のペアではなくとも同じ場所に立っていたものなのかもしれません。現存する部分の高さは約2.73mですが、太さから見て元の高さは4~5m程度ではなかったかと思います。

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南面

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西面

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北面

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東面
2016年4月26日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●ラムセス4世のオベリスク(断片)
 第20王朝のラムセス4世(在位 紀元前1151~1145)の現存する唯一のオベリスクです。ウォーリス・バッジの"Cleopatra's Needles and Other Egyptian Obelisks"には、現存する重要なオベリスクの一つとして碑文と共に紹介されています。この断片の高さは1.56mで、カイロの建物の建材として使われていたものが発見され、1887年に博物館の収蔵品となったと記述されています。博物館がギザに移転する前のことですから、エジプト博物館の収蔵品の中でも初期の頃のものです。碑文は各面2行ずつですが文面はすべて異なっています。しかしながら断片の最上部のラムセス4世の即位名のカルトゥーシュと、下の方の誕生名のカルトゥーシュの位置はすべて揃っています。対象性と様式美を重要視し、十分に配慮されていることが分かります。なお、西面のみヒエログリフの部分が白色に彩色されているのが残っています。2014年に訪れた時には、オベリスクの脇に自動小銃を持った兵士が座って休んでいました。写真を撮影したときには気前よく退いてくれましたが、椅子の上に自動小銃が残っています。

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西面

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南面

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東面

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北面
東面および北面2014年8月4日、西面および南面2016年4月26日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●トトメス3世のオベリスク(断片)
 碑文にあるホルス名、即位名、誕生名からトトメス3世(在位 紀元前1504~1450)が作ったものであることは分かりますが、果たしてこれがオベリスクかどうかは定かではありません。英国の書籍でもこのオベリスクは石碑かもしれないと記述しているものがあります。碑文は1面だけで他の面は無地のままです。形状自体は上側の方がわずかに細くなっているので、四角錐のオベリスクの形状なのですが、筆者は断定することができません。もしオベリスクであるとすれば最下部の断片であると思われます。長さは3.7mあります。なお、東面の写真のオベリスクの奥に写っているのは、2011年の革命の際に放火された国民民主党の建物ですが、2016年に訪れた時には解体されていました。

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南面

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西面

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北面

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東面
東面および北面2014年8月4日、西面および南面2016年4月26日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)


名前の無いカルトゥーシュ 名前の無い
カルトゥーシュ

●王名が消されたオベリスク(断片)
 東側の面だけに碑文がありますが、碑文は上下ともに中途半端な感じになっているので、上側と下側が失われた断片と思われ、長さは約1.5mあります。碑文の下の方にあるカルトゥーシュの部分を示したのが右側の写真ですが、名前が消されているように見えます。
 ただ、あとに消されたにしては消された跡がきれい過ぎ、削りとられたにしては凹み方が少ないようにも思えます。このため初めから王の名前が彫られていない可能性もあります。しかし、王の名前を彫らないオベリスクを誰が何のために作るのか、その意図が理解できませんので、未完というのはやや考えにくいようにも思われます。
 ラムセス2世が多くの碑文を自分の名前にしてしまったように、後世のファラオによって名前が書き換えられてしまった事例は多いのですが、王名が消されるような仕打ちを受けた王はさほど多くはありません。アテン神への宗教改革を行い異端とされたアクエン・アテン、王権を簒奪し後に忌避されたハトシェプストなどが名前が消された事例として知られていますが、碑文の記述法からはそのような古い時代ではなく、プトレマイオス朝あるいはローマ帝国の統治下となった以降のものであるように思われます。プトレマイオス朝は暗愚な王が多く、民衆の叛乱によって国を追われた王も多いので、そのような王のオべリスクであるのかもしれません。
 エジプト博物館の収蔵品のデータでは、それらしいものが二つありました。一つは"Obelisk Ptolemaic(?)"(CG 17034, JE 55313)と、王の名が書かれていないオベリスクが掲載されていましたので、もしこれだとすれば、アスワンの近くのエレファンティネ島で出土したもののようです。他の一つは"Upper part of obelisk, name lost (430) CG 17037(17010 bis), JE 53834)"で、名前が失われていると明記されています。こちらはシナイ半島のSerabit el-Khadimで出土したもののようです。

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東面

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北面

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南面

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西面
2014年8月4日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●ネクタネボ2世のオベリスク(断片)
 2016年4月にエジプト博物館を訪れた時には、写真撮影ができたこともあって、かなり丹念に博物館内部の展示品を見てきました。その結果、これまであまり時間をかけてみていなかった、第3中間期からプトレマイオス朝にかけての遺物が陳列されているコーナーに、2本のオベリスクらしいものが置かれていることに気づきました。これがそのうちの1本です。長さは約1.8mで、材質は赤色花崗岩です。碑文は即位名の途中から始まっているので、上部が失われていることが分ります。下側の碑文はかなり劣化していますが正面には碑文を囲む枠の線が見えていますので、下部は失われていないものと思われます。
 即位名と誕生名が読めたので、このオベリスクは末期王朝時代第30王朝のネクタネボ2世のものであることがわかりました。ネクタネボ2世といえば大英博物館の黒色のペアのオベリスクが思い出されます。ただ、大英博物館のオベリスクが非常に端正なヒエログリフであるのに対して、こちらは彫りも浅く稚拙な感じがします。エジプト博物館の収蔵品のデータを調べていましたら、"Lower part of obelisk of Nektanebos II, red granaite"(CG 17031, JE-26414)と、それらしいものが見つかりました。カイロの北、約80kmのところにあるTell Bastaの遺跡で出土したもののようです。

cairo_nectanebo2_front
正面

cairo_nectanebo2_left
左面

cairo_nectanebo2_right
右面
2016年4月26日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●アマシス王のオベリスク(断片)
 2016年4月にエジプト博物館を訪れた時に、博物館内部で上記のネクタネボ2世のオベリスクの附近で見つけたものです。長さは約1.3mの小さなもので、材質は赤色花崗岩です。碑文はホルス名の最下部から始まっているので、上部が失われていることが分ります。即位名、誕生名があり、下側は碑文を囲む枠の線が見えていますので、下部は失われていないものと思われます。
 即位名と誕生名から、このオベリスクは末期王朝時代第26王朝のアマシス王(イフアメス2世)のものであることがわかりました。エジプト博物館の収蔵品のデータには、"Lower part red granite obelisk of Amasis"(CG 17029, JE 44264)と記載されていました。ルクソールの北東、約100kmのところにあるPtolemais Hermouの遺跡で出土したもののようです。
 このオベリスクは壁のコーナーになった所に置いてあり、正面は撮影できましたが、右側面は斜め前からしか撮影できず、他の2面の撮影はできませんでした。碑文はむしろ右側面の方が鮮明に見えています。余談ですが、エジプト博物館の建物や調度品が、かなり古びて傷んでいるのが目につきます。

amasis obelisk front
正面

amasis obelisk right side
右面
2016年4月26日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

ram2obelisks.jpg ●ラムセス2世のオベリスク(断片)
 エジプト博物館の東側は職員の通路になっていて、首から上が欠けた石像や、オベリスクの台座のような石材などがたくさん置かれています。博物館のフェンスの外から、その様子を見ることができたので、博物館の前庭にあるオベリスクの写真を撮り終えてから東側に回ろうとしましたが、警備の兵士に呼び止められ、東側の庭には立ち入れませんでした。
 博物館を出て東側に回りましたが、フェンスに近寄れないように外側にバリケードが作られているため、フェンス越しの写真さえも思うようには撮れませんでした。写真に写っている2本の角柱状の石材には、ラムセス2世の名前が彫られているのが分かります。ただ、近寄れていないのでオベリスクなのかどうかは確認できません。(2014年8月4日 エジプト博物館の東側から筆者撮影)

撮影メモ:
 筆者がカイロを再訪した2014年8月初旬には、外務省のエジプトの渡航情報は、カイロやルクソールも「渡航の是非を検討してください。」のレベルになっていました。危険度レベルが「十分注意してください。」に引き下げられたのは8月29日からです。このため、2008年に訪れた時には観光客で賑わっていたエジプト博物館ですが、今回は団体観光客もごくわずかでガラ空きの状態でした。ツタンカーメンの黄金のマスクの展示室でさえ、数人しか参観者は居なくて、ずっと黄金のマスクの真正面に立ち続けていても他の観光客の邪魔にはならないので、貸しきり状態で満喫することができました。2016年4月に再度おとずれた時には、外務省の危険度レベルも「十分に注意して下さい」に下がっていて、革命前には程遠いものの、かなり観光客は増えていました。
 世の中の多くのウェブサイトで、ルクソール博物館に屋内展示されているオベリスクについては触れられても、エジプト博物館の中庭にあるオベリスクが無視されているのは何故だろうとかねがね疑問に感じていましたが、博物館の前庭の木陰で休んで観光客を眺めていたら納得しました。
 大半の観光客、特に団体観光客は、中庭に置かれている石像や石碑などには目もくれずに博物館の中に進んでしまうのです。参観コース上に展示されているルクソール博物館のオベリスクと、参観コースからはずれたところにあるので気付かれないオベリスクの差が、この結果に繋がっているのではないかと思います。意図した結果ではなく、単にウェブサイトの作者の無知によるものだと思われます。


共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org