センウセレト1世のオベリスク (ファイユーム) オベリスク全リストへ戻る

大きな地図で見る

現在地:  ファイユーム、ケスム、ナバウィ通りとナセル通りの交差点
北緯
29°18′55.0″(29.315287) 東経30°51′09.0″(30.852491)
創建王:  センウセレト1世(中王国時代第12王朝,在位,紀元前20世紀)
高さ:  約13メートル
石材:  赤色花崗岩

場所について:
 ファイユームは人口が35万人の近代的な大都市です。周辺部を含めたファイユーム県の人口は250万人に達します。ですからファイユーム市は砂漠の中のオアシスの町のイメージでは全くありません。ファイユーム地方は海面より低い盆地になっていて、ナイル川を水源とする支流が広大なカルーン湖を作っています。このためカルーン湖は厳密にはオアシスではありません。
 水に恵まれたファイユーム盆地は、中王国時代には開発が進んで穀倉地帯となり、古代より栄えていました。近くには中王国時代のハワラのピラミッドやエル・ラフーンのピラミッドがあります。ただし日干し煉瓦で造られているため今では崩れて小山のようになっています。また、プトレマイオス朝の頃には多数のギリシャ人がファイユーム地方に入植しました。その人々は死後エジプト式にミイラに処理されて埋葬されましたが、その墓地から板に描かれた大量の肖像画が出土しました。筆者は2009年の秋に、大日本印刷のDNPミュージアムラボで展示されていた数点の肖像画を見たことがありますが、とても印象的でした。ミイラ肖像画についてはWikipediaの日本語版サイトが詳しく参考になります。
 オベリスクが立てられている交差点は、ファイユーム市の中心部からは北東に800mほど離れたところになります。オベリスクが修復されたのは1970年代のことのようですから、その当時の新市街に新たに作られた大通りの交差点が場所に選ばれたのではないかと思います。
 筆者はとんぼ返りの旅行でしたが、ファイユームには広大なカルーン湖や中王国時代のピラミッド、運河沿いの水車など見所は多くあるようです。むしろオベリスクを見るためにファイユームを訪れる人は稀でしょう。ファイユームについてはExplore Fayoumというサイトが参考になります。

faiyum1.jpg 行き方:
 ファイユームはカイロから南南西に100kmほど離れたところにある大都市です。カイロのラムセス中央駅からファイユームまでは鉄道でも行けるようですが、1日4便で片道所要4時間とのことなので断念しました。他の交通手段はタクシーかバスになります。カイロ市内のCairo Gatewayという長距離バスのターミナルからファイユーム行きのバスが出ているほか、ギザの駅前からも格安のバスがあるようなのですが、所要時間が分からないので、結局筆者はタクシーを借り上げてファイユームに行きました。エアコンの効いたまともな車でしたので割高でしたが5時間借りて400EGP(約6,000円)でした。
 カイロからファイユームまでの道路はよく整備されているのですが、途中に検問所があって少し渋滞していました。またカイロ市内からですとギザ経由でファイユームに向かうのが一般的ですが、ギザまでの道がかなり混むことがあります。それでも所要時間は片道2時間前後でしょう。
 センウセレト1世のオベリスクはファイユーム市中心部から北東に行ったところにあります。ナバウィ通り(El-Nabawy)とナセル通り(Gamal Abd El-Nasir)という二つの大通りが交差するロータリーの中央部に立っています。オベリスクは大きくて目立つ上に、交通量の多い交差点なので、タクシーの運転手に道路名とオベリスクの画像を見せれば通じるでしょう。

オベリスクについて:
 中王国時代第12王朝のセンウセレト1世(在位 紀元前1971~1926)のオベリスクで、高さは約13mです。多くの書籍やウェブサイトではこのオベリスクについて記載していません。このため資料は非常に少ないのですが、前述のExplore FayoumやObelisk of Senusret I、あるいはHistoria de los Obeliscos Egipciosというサイトにかなり詳しく記述されています。それらの資料によれば、元々立っていた場所はファイユームの南西3kmのAbgigあるいはBegigとも呼ばれる地域のようです。18世紀末にナポレオンがエジプトに遠征した際に、同行した考古学者がこのオベリスクについて記録しています。このオベリスクは壊れて断片になっていましたが、1971年頃に大幅な修復を経て現在の地に再建されました。
 大英博物館の責任者を長く務めたウォーリス・バッジの"Cleopatra's Needles and Other Egyptian Obelisks"(1926)には、このオベリスクが碑文の一部と共に紹介されています。ただしこの本の中でバッジは、「幅は7フィート、厚さは4フィートで、オベリスクというよりはむしろ石碑(ステラ)に近い。ただし通常Begigのオベリスクと呼ばれている」と記述しています。オベリスクの本の中に紹介してはいても、微妙な立場をとっているわけです。
 バッジはこのオベリスクに書かれている碑文の断片を紹介していますが、実は筆者がその現物を撮影している時には碑文の存在にはまったく気付きませんでした。ローマのエスクイリーノやクイリナーレのオベリスクと同等の高さで、同じようにのっぺらとした赤色花崗岩の石柱です。しかも先端は丸くなっていますので、「これではオベリスクに含まれないのも無理ないな…」などと考えながら4面の写真を撮っていました。
 碑文の存在に気付いたのは帰国後に写真の整理をしていた時です。北東面の画像を原寸大で見てみると碑文を囲む長方形がごく薄くではあるのですが見えていて、最上部にはホルスらしい絵が見えます。補修された際に使用された石材と元の断片とは微妙に色が異なっていますので、どのように補修されたのかも想像できます。ただし他のヒエログリフはまったく確認できませんでした。驚いたのは、碑文を囲む長方形が修復されたオベリスクの中心線とは合っていなくて、約1°傾いていることです。長方形の線が残っている部分を黄色の線で示したのが左側の写真です。
 このことに気付いた後に再度見直してみると、南西面の碑文はもっと良く残っていることに気付きました。二重冠を被ったホルスの下にセンウセレト1世のホルス名、さらにその下側に即位名を読み取ることができます。また、南東面はかすかですが最上部に絵が残っています。なお、修復後のオベリスクの形状は南東面が南西面より太く、断面が長方形になることも確認できました。
 先端が尖っていない理由もエジプト訪問前には分かっていなかったのですが、文献を読んでいるうちに、石材はかなり損傷していても、再建の際に元の形を修復しようと努めた結果であることが理解できました。この形状ですから、確かにバッジが書いているようにオベリスクよりは巨大なステラに近いのかもしれませんが、ここではオベリスクの一つとして記録に留めたいと思います。

撮影メモ:
 オベリスクはロータリーの中央に建っているので周囲は絶え間なく車が走っていましたが、幸いにして円形の十分なスペースが作られていますので車道に出て写真を撮る必要はありませんでした。しかしオベリスクの台座の周囲には柵も無いので、台座には広告がベタベタ貼られ、オベリスクの下部には不心得者の落書きまであり、かなり痛ましい状態になっていました。

faiyum_NE.jpg
北東面

faiyum_SE.jpg
南東面

faiyum_SW.jpg
南西面

faiyum_NW.jpg
北西面
2014年8月6日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org