ヘリオポリスのオベリスク オベリスク全リストへ戻る

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現在地:  エジプト、ヘリオポリス、マタレイヤ
北緯
30°07′45.8″(30.129396) 東経31°18′27.0″(31.307496)
創建王:  センウセレト1世(中王国時代第12王朝,在位,紀元前20世紀)
高さ:  20.7メートル
石材:  赤色花崗岩
創建王:  テティ王(古王国時代第6王朝,在位,紀元前24世紀)
高さ:  約1メートル
石材:  石英岩

場所について:
 ヘリオポリスはエジプト古王国時代から栄えていた都市で、太陽信仰の中心地でした。ヘロドトスもヘリオポリスを訪れて古代エジプトの知識を深めました。ヘリオポリスには、かつては多くの太陽神殿があり、数多くのオベリスクが建てられていました。ヘリオポリスから外国に運ばれたオベリスクも多数あり、下記の8本が現存しています。

・パンテオン前のマクテオ・オベリスク(ラムセス2世)
・チェリモンターナのオベリスク(ラムセス2世)
・モンテチトーリオのオベリスク(プサメテク2世)
・ポポロ広場のフラミニオ・オベリスク(セティ1世およびラムセス2世)
・ドガリのオベリスク(ラムセス2世)
・ボーボリのオベリスク(ラムセス2世)
・ロンドンのクレオパトラの針(トトメス3世)
・ニューヨークのクレオパトラの針(トトメス3世)

 プトレマイオス朝の頃までヘリオポリスは栄えていたのですが、次第に信仰の対象は古代エジプトの神々からギリシャの神々へと移っていき、ローマ帝国の頃になるとヘリオポリスは既に荒廃していたようです。この結果、多数のオベリスクが運び出されたのでした。それにしても8本ものオベリスクが持ち出されたのですから、いかに過去のヘリオポリスが大規模な神殿複合体であったかが伺われます。
 しかしながら現在のヘリオポリスには、センウセレト1世のオベリスクが立っているだけで、他には遺跡らしいものは何一つ残っていません。カイロに近い場所であるため古くから開発が進み、大半の遺物は石材などに利用されてしまったのかもしれません。
 オベリスクが立っている場所は、約70m四方の整備された広場になっていて、手前に入場ゲートがあります。2013年の軍事クーデターの際には、ヘリオポリスはデモ隊と治安部隊が衝突を繰り返していた地域で、おそらく治安の悪化が原因で、センウセレト1世のオベリスクは非公開となりました。以前オベリスクが公開されていた頃には、広場は団体客でも参観できるように整備されており、センウセレト1世のオベリスクの周囲にはヘリオポリスで出土した遺物の一部も展示されていて野外博物館になっていました。

オベリスク展示場の看板 オベリスク展示場の看板

 オベリスクがある場所の附近はマタレイヤと呼ばれています。筆者は2014年8月4日に現地を訪れました。地下鉄の駅を降りて猛暑の中をとぼとぼ歩いていると、タクシーに声を掛けられました。英語が巧い運転手だったので、そのタクシーを拾って、ほぼ地図の経路でオベリスクに向かいました。
 運転手と二人でオベリスクが立っている敷地に入りますと、この場所を管理をしている公安関係者らしき人物が二人出てきて、立ち入りを禁じられました。開いていたゲートも閉められてしまい、フェンス越しにしか写真撮影も駄目だと言います。「四方からの写真も撮りたい」と言うと、「敷地の周囲から塀越しに撮ればよい」と言われ、諦めて正面左手(南側)に回ってみました。ところが周囲の塀の裏には木が植わっていてオベリスクは見えません。さらに驚いたのは、オベリスクのある広場の周囲は広大なゴミ捨て場になっていて、取り壊された建物の瓦礫や電気製品、つぶれた車などが延々と散乱しているのです。ゴミ捨て場に入ると周囲の雰囲気も一変して、廃屋のような建物に居る人々の視線も気になります。同行していたタクシーの運転手はひどく怯えて、「こんな所に長居していてはいつ殺されても仕方が無い。早く写真を撮って帰ろう」と言い出しました。仮に裏手に回っても木の陰になってオベリスクは撮影できそうにもないので断念して引き上げました。
 そんなことから2016年4月には垣根越しに撮影ができるように、長さが5mまで伸ばせる自撮り棒のようなものを用意して現地を再訪しました。治安も悪いため、観光警察官の同行も手配しました。ただ、撮影はできましたが、時間帯が悪く、北面と西面は碑文が鮮明に見える写真は撮れませんでした。このため、2017年5月に再度現地を訪れました。
 Google mapの現地の衛星写真を見ながら今から考えてみると、ゴミ捨て場になっていた広大な空き地は、ヘリオポリスの遺跡を発掘した跡地ではないかと思われます。遺跡のためにおそらく国有地になっていて開発は免れているのですが、管理が悪いためにゴミ捨て場と化しているのだろうと思います。非常に広大なゴミ捨て場ですから、周囲の環境が悪くなるのは当然で、その中をウロウロ歩いていたのでは、確かに危険極まりないです。

行き方:
 2014年8月の時点ではヘリオポリスのセンウセレト1世のオベリスクは非公開になっています。オベリスクは整備された敷地内に立っているのですが、敷地内への立ち入りが禁じられています。入場ゲートのフェンス越しに正面からの写真は撮れますので、行き方を一応説明しておきますが、オベリスクの敷地の付近は必ずしも安全とは言い難いので、個人旅行者が単独で行くことは勧めません。
 エジプト博物館の近くのサダト駅やナセル駅から地下鉄1号線でエル・マルグ方面へ向かいアイン・シャムス(Ain Shams)駅で降ります。駅の北側には立体交差になっているアイン・シャムス陸橋が見えますので、そちらに向かい陸橋の下の広い道路を左折して西に進みます。200mほど西に行くと大通りは斜め左にカーブしますので道なりに西南西方向に進みます。この大通りの名前はAl-Matarawy Streetです。まっすぐ直線に延びる道を600mほど進むと、右側にTeba Mallというアウトレットのショッピングモールが見えます。Teba Mallを過ぎてさらに200mほど歩くと右側からV字型に合流する道がありますので右折します。150mほど行くと左側にひときわ大きなビルが建っていますので、それを過ぎると左側の奥にオベリスクが見えてきます。若干回り道になるのですが日中であれば大通りを歩いている分には安全です。ただ、オベリスクが立っている敷地の近くになると殺伐とした雰囲気になってきます。マタレイヤは、中流階級の人々が住むマンションが連なる小綺麗な街並みと、朽ち果てた車が路上に放置されているスラム街とが隣接しています。周囲の雰囲気が変化しだしたら立ち入るのはやめましょう。

オベリスクについて:
●セウンセレト1世のオベリスク
 立っている古代エジプトのオベリスクとしては最古の、中王国時代第12王朝のセンウセレト1世(在位 紀元前1971~1926)のオベリスクで、高さは20.7mです。この地に4000年近く立っていたのですが、地下水位の上昇によって台座とオベリスクの最下部が水に漬かるようになったため、1970年代にドイツのクルップ社によってオベリスクを台座ごと高くする工事が行われています。なお、ファイユームにもセンウセレト1世のオベリスクが残っています。
 立ち入りを禁じられたため、2014年には東面と南面の写真しか撮影できませんでした。しかしながら東面と南面は碑文を見比べたところ同一の碑文であることは確認できました。2016年には長さが5mまで伸ばせる自撮り棒のようなものを用意して、垣根越しに写真撮影をしました。この時にも西面と北面は逆光のため不鮮明な写真しか取れませんでしたが、垣根越しの写真が撮影可能なことは確認できたので、2017年5月には北面に陽が当る早朝と、西面に陽が当る午後に、2回に分けて現地を訪れました。この結果、やはり4面同一の碑文であることが確認できました。
 碑文にはセンウセレト1世のホルス名、即位名、誕生名が彫られています。おそらく後代のエジプトのオベリスクの書式法の規範になっていたのではないかと思います。ただ、新王国時代のオベリスクの最上部のホルスは上下エジプトの統一王朝を象徴する二重冠(プスケント)を通常被っていますが、このオベリスクのホルスは無冠です。
 それにしても、今から4000年近く前のオベリスクの碑文が、このように美しく残っているのは驚きです。ヒエログリフの書体も端正で美しく、非常に感銘を受けます。また、この地に4000年間倒壊せずに立っているという事実も、考えてみれば大変なことです。

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東面

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南面

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西面

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北面
東面:2016年4月26日 その他の面:2017年5月3日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)


inscription of Teti's obelisk 碑文

●テティ王のオベリスク
 古王国時代第6王朝のテティ王(在位 紀元前2345~2333)のオベリスクで、王名が刻まれているオベリスクとしては世界最古のものです。テティ王は第6王朝の最初の王となった人物で、メンフィスの出身であったとされています。サッカラに高さ52mのピラミッドが残っており、内部を参観することもできます。
 このオベリスクは、ヘリオポリスで1970年代に発掘が行われた時に発見されたものです。テティのオベリスクの碑文はラビブ・ハバシュの「エジプトのオベリスク」に掲載されていて、ホルス名が彫られた先端部分が残っています。エジプト考古最高評議会のザヒ・ハワスのウェブサイトには"Excavation in Ain Shams"というページがあって、テティのオベリスクの発見について触れているほか、センウセレト1世のオベリスクの敷地に野外博物館を作ったと書いてあります。インターネット上にも野外博物館にあるオベリスクとしてそれらしい1枚の写真が公開されています。さらにflickr.comにはテティのヒエログリフが判読できるレベルの写真が公開されていました。
 2014年に訪れた時にはセンウセレト1世のオベリスクの敷地内に入れなかったため、その存在を確認することができませんでした。2016年に再訪した時には、長さを5mまで伸ばせる自撮り棒のようなものを持参して、フェンス越しにセンウセレト1世のオベリスク撮影しましたが、その写真を丹念に見ていたらテティ王のオベリスクらしいものが敷地内の南側に写っていることに気づいたのです。そこで北側から望遠で撮影した結果、テティ王のオベリスクであることが確認できたのです。ただ写真の鮮明さはいまひとつで、碑文は周囲の枠がかろうじて分かる程度でした。敷地の南側からでしたら、フェンスの近くに置いてあるため容易に撮影ができるのですが、残念ながら碑文は一つの面にしか彫られていません。背面側はかなり痛んでいます。
 2017年には再度現地を訪れました。逆光にならずにコントラストがある写真が撮れる早朝に現地を訪れ、今度は望遠レンズを持参しました。それでも40mほど離れた所からの撮影なので、さほど拡大した写真にはなりませんでしたが、王の名が確認できるレベルの写真を撮影することが出来ました。この碑文を、写真とラビブ・ハバシュの「エジプトのオベリスク」に掲載されている図を元に再現したのが右図です。
 碑文が即位名で途切れてしまっていることから、残っているのは上部だけで下部が失われていることが分りますが、ラビブ・ハバシュの「エジプトのオベリスク」によれば全体の高さは3m程度であったのではないかと想像されています。
 古王国時代にはオベリスクは墓の入口に小規模なものが建てられていただけで、大きな本格的なオベリスクが登場するのは中王国時代からというのが定説だったのですが、ヘリオポリスの太陽神殿の敷地内で、このテティ王の名が入ったオベリスクが見つかったことによって、オベリスクのそれまでの定説がくつがえされ、オベリスクの年代は一気に400年さかのぼり、古王国第6王朝となったのです。その意味でこのオベリスクは非常に貴重な存在です。
 なお1970年代以降には、ギザの南にあるアブシールの遺跡をチェコのエジプト学研究所が発掘を続けた結果、アブシールにある太陽神殿には巨大なオベリスクが立てられていたことが分っています。ただし、アブシールのオベリスクは太くてずんぐりした形状で、神殿の前に2本ペアで建てられたセンウセレト1世以降のものとは、形状もその目的も異なっています。

teti_obelisk_2017
東面

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西面
東面:2017年5月3日 西面:2016年4月26日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

撮影メモ:
 エジプトの古代遺跡では規制が厳しくなっていて、ロープで立ち入りが禁止されているところが非常に目立ちます。ギザのピラミッドの周囲、ハトシェプスト女王葬祭殿を見下ろせる葬祭殿に向かって右側の丘、カルナックのセティ2世のオベリスクの南側など、2008年には自由に行けたところが立ち入り禁止になっています。
 マタレイヤは治安が悪い地帯でもあるので、公開中止の措置は当分続くと見られます。このため、どうにかして周囲の樹木越しに写真撮影をする方法が無いかと考えたのでした。最初に思いついたのはドローンでしたが、ドローンはエジプトでは厳しく規制されており、英国政府の渡航情報では「無人機による写真撮影禁止」が特に書かれているほどなので諦めました。次に探し当てたのが、長さが5mの「カメ棒」という物でした。2016年4月に現地を再訪した時には、予想通り「カメ棒」を使えば周囲の樹木越しに写真撮影ができましたが、残念ながら撮影した時間が悪く逆光で、撮りたかった北面と西面の写真はきれいな写真が撮れませんでした。またこの時には、ゴミ捨て場に牛の死骸が捨てられており、炎天下の中で強烈な死臭を放っていました。同行したガイドや観光警察官はハンカチで鼻を押さえているほどで、その環境での撮影はきついものがありました。


共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org