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アゴナリス・オベリスク
現在地: | ローマ、ナヴォーナ広場 北緯41°53′56.3″(41.898972) 東経 12°28′23.1″(12.473083) |
創建王: | ローマ皇帝 ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス帝、1世紀後半 |
高さ: | オベリスクのみ 16.53メートル、 台座を含め 30.17メートル |
石材: | 赤色花崗岩 |
場所について:
アゴナリス・オベリスクはナヴォーナ広場に立っています。ナヴォーナ広場はローマでも有数の観光名所で、ローマ市内観光の大半のツアーに組み込まれています。このため昼間はいつも観光客で混み合っています。この広場は西暦86年にドミティアヌス帝が作らせた競技場、キルクス・アゴナリス(ラテン語で戦車競争場の意味)が元になっています。今でも広場には敷石で長円形の形状がふちどられており、かつては競技場であった面影が残されています。
ジャコモ・デッラ・ポルタ作 「ネプチューンの噴水」 |
ナヴォーナ広場がローマ有数の観光地の一つとなっているのは、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「四大河の噴水」と「ムーア人の噴水」、ジャコモ・デッラ・ポルタ作の「ネプチューンの噴水」(写真)や、広場の周囲のサンタニェーゼ・イン・アゴーネ(聖アグネス)教会などの美しさによります。中でもベルニーニが制作した四大河の噴水は、バロック彫刻の傑作とされている素晴らしいものです。四大河の噴水は、ナイル川、ガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川の、世界の四つの大河を擬人化した彫像で構成されており、中央にオベリスクが建つ非常に重厚で大掛かりな造りになっています。
なお、ナヴォーナ広場からパンテオンを経て、トレビの泉あるいはスペイン広場に到る道筋は、オベリスクが4本あります。ローマの主要な観光スポットを徒歩で効率よく回ることができるコースとしてお勧めします。
ナヴォーナ広場→マダーマ宮殿(イタリア国会上院)→スタデラリ通り→パンテオン→ミネルヴァ教会→モンテチトーリオ広場の順路です。モンテチトーリオのオベリスクを見終わった後は、すぐ近くにあるイタリア首相府と正面に立つ巨大なマルクス・アウレリウスの円柱を見てから、その正面のショッピングセンター(ガッレリア・アルベルト・ソルディ)を覗いてみるのも良いでしょうし、南東に進んでトレビの泉を目指すか、北東に向かってスペイン広場に至るコースのいずれかになると思います。
映画「天使と悪魔」ではオベリスクがテーマの一つとなっていましたが、アゴナリス・オベリスクは4番目の教皇候補者の殺人事件の舞台となっていて、四大河の噴水の水中に教皇候補が沈められているという筋書きでした。また、オベリスクの頂上の鳩が向いている方向が最後の事件が起きるサンタンジェロ城を指し示しているという設定になっていました。
オベリスクの頂上のハトは 法王一族の家紋 |
行き方:
ナヴォーナ広場には最寄の地下鉄駅がありません。地下鉄A線のバルベリーニ(Barberini)あるいはB線のコロッセオ(Colosseo)が比較的に近い駅ですが、いずれの駅からも1km以上歩きます。
このためテルミニ中央駅からナヴォーナ広場に行くのでしたら、駅前広場から出ている路線バスの方が便利です。64系統の Stazione San Pietro 行きで Corso Vittorio Emanuele で降りるとナヴォーナ広場は北東に 100mほどですし、70番系統 Clodio 行きのバスでしたら Corso Rinascimento か Senato で降りると、西側に 50mほど歩いた所になります。64系統のバスは1時間に8本程度、70番系統のバスは1時間に4本から6本程度運行されています。バスに乗るのは不安に感じられるかもしれませんが、ローマは観光地なので観光客には概して親切ですから、降りる停留所名を書いた紙を運転手に見せれば着いたときに教えてくれるでしょう。
オベリスクについて:
アゴナリス・オベリスクの名前はナヴォーナ広場の場所にあったキルクス・アゴナリス(上記参照)に由来します。また、このオベリスクは「ナヴォーナ広場のオベリスク」とも呼ばれていますが、ここでは英語版のWikipediaの「List of obelisks in Rome」の表記に従っています。高さは16.53mですが、ベルニーニの「四大河の噴水」の彫像がある台座部分を含めると約30.17mとなります。ナヴォーナ広場では一際高くそびえ立っており、非常に目立つシンボル的な存在となっています。
ベルリーニの彫像のおかげで、このオベリスクは世界で最も芸術的に優れたものとなっていると思いますが、残念ながらエジプト製ではありません。
このオベリスクは、西暦 81年から 96年にローマ皇帝であったティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスが作成を命じたもので、エジプトの上ナイル地域から赤色花崗岩を切り出して作られたものです。ナヴォーナ広場の東側の、今ではサンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ聖堂となっている場所にあったイシス神殿の近くに建てられました。
右の写真は北側の面の頂上部を拡大したものですが、オベリスクの頂上のピラミディオンには、二人の女神から祝福を受ける二重王冠を被った王の姿が描かれており、エジプトの様式を感じさせます。ヒエログリフは東側の面がきれいに残っていますが、この面には「彼(ドミティアヌス)は父のウェスパシアヌスの王国を、彼の兄である偉大なるティトゥスの魂が天に舞い上がった後に、彼の代わりに受け取った。」(出典:Cleopatra's Needles and Other Egyptian Obelisks、E.A. Wallis Budge著 1926)と帝位継承の経緯が書かれているとのことです。
下の方にはカルトゥーシュに囲まれたギリシャ語の皇帝(Autocrator)という単語と、カエサル・ドミティアヌス・セバストゥスの名前が読めます。セバストゥスはアウグストゥスのギリシャ語の称号の一つですので、これらによってドミティアヌスの皇帝名の「インペラトル・カエサル・ドミティアヌス・アウグストゥス」が表されていることになります。なお、エジプトはローマ帝国領になる前はギリシャ系のプトレマイオス王朝が続いており、公用語はギリシャ語でしたので、ヒエログリフへの翻訳者もギリシャ語の表現を用いたのでしょう。
ドミティアヌス帝は元老院と対立し、ローマ帝国の財政を悪化させ、暴虐でもあったので 96年に暗殺されました。さらに死後には記録抹殺刑を受け、公式記録から抹消されるという不名誉な最期を遂げています。
4世紀になって、マクセンティウス皇帝(在位 306-312年)はこのオベリスクを自己の私有地に作ったマクセンティウス競技場(チルコ・ディ・マセンチオ)に移設しました。同競技場はローマのサン・セバスティアーノ門からアッピア街道沿い約 2.8キロ南に行ったところにマクセンティウス帝が早世した息子のロムルスを偲んで建設した長円形の戦車競技場で、いまも跡地が広場となって残っています。ロムルスが没したのは 309年ごろと伝えられますので、オベリスクがここに移築されたのは 309年からマクセンティウス帝の没する 312年の間と思われます。
その後6世紀にはオベリスクは壊れてしまい、バラバラになって廃墟の中に放置されていました。
16世紀後半の有名な法王シクスタス5世もこのオベリスクのことは知っていましたが、他のオベリスクのことで忙しくて、そのまま放置されました。1630年代に英国のアランデル伯爵が保証金を支払って、4個の断片に分かれたこのオベリスクをロンドンに運ぼうとしましたが、輸出は許可されませんでした。
17世紀、ローマ教皇イノセント10世(イノケンティウス10世)がナヴォーナ広場への再建を命じました。彼は法王になる前この広場に面した建物に住んでいたことがあり、自分の法王就任を記念してこの広場に噴水を作り、そこにオベリスクを立てることを思いついたのだということです。
それを聞きつけたジョバンニ・ロレンツォ・ベルニーニは自分がこの作業に当たらせてほしいと売り込み、他の建築家をさしおいて仕事を受注したとの話も残っています。それは 1647年4月11日のことです。
オベリスクの頂上には法王一族の家紋であるハトが十字架の代わりに取り付けられ、噴水とともに 1651年春に完成。噴水は「四つの河の噴水」と言いダニューブ河(ドナウ河のことです)、ラプラタ河、ナイル河、インダス河を象徴する四人の男性像を配置しています。ベルニーニが作った建築物や噴水は沢山残っていますが,この「四つの河の噴水」は彼の代表作の一つとして,またバロックを代表する彫刻として高く評価されています。
写真を良く見ると、少なくとも4個に分かれていたオベリスクの断片をつなぎ合わせた痕跡が分かります。
記録が抹殺されたドミティアヌス帝ですが、彼が作らせ彼の名前が刻まれたオベリスクが彼が作らせた競技場の跡地に再建され、ローマを訪れる観光客の大半が目にするオベリスクとなっているのは、歴史の皮肉のようなものを感じます。
またこの建設には多大の費用がかかり、その結果増税されたので、法王一族はローマ市民からずいぶんと声高な抗議を受けたといいます。しかし、いまとなってはこの偉大な記念碑はローマを代表する名所になっております。
撮影メモ:
ナヴォーナ広場はローマの市内ツアーの大半が立ち寄るところなので昼間は観光客が大勢います。また、広場の周囲にはレストランやカフェが多く、特に夏場はパラソルを建てて広場の中まで店を広げているので、オベリスクの写真を撮るのも困難になってきます。このため 2013年夏には団体客が行動しだす前の7時半頃に撮影をしたのですが、太陽が仰角が低く逆光になってしまい苦労しました。ここでは2014年に再訪問したときの写真を掲載していますが、観光客が既に繰り出している時間のため台座の一部が写っていません。
南面 |
東面 |
西面 |
北面 |
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2014年8月11日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます) |
共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org