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クレオパトラの針(ニューヨーク)

現在地:  ニューヨーク、セントラルパーク[メトロポリタン・ミュージアムの西側]
北緯 40°46′46.67″(40.779625) 西経 73°57′55.44″(-73.965396)
創建王:  トトメス3世(新王国第18王朝、在位 紀元前15世紀)
高さ:  21.21メートル
石材:  赤色花崗岩

場所について:
 オベリスクはニューヨークの有名なセントラルパークの中にあります。メトロポリタン・ミュージアムのちょうど西側です。
 セントラルパークといえば、シープメドウやベセスダファウンテンに多くの人が集まりますが、この場所はセントラルパークでも比較的淋しい場所です。 にぎやかなニューヨークの中でも、これは感慨深いことです。ただ、セントラル・パークの地図には、このオベリスクが記載されているので、オベリスクを目当に訪れる観光客もいないわけではありません。
 メトロポリタン・ミュージアムを訪れる人は多いのですが、オベリスクまで足を伸ばす人はあまりいないようです。 メトロポリタン・ミュージアムに行かれた方は、ぜひこちらにも行ってみてほしいと思います。
 また、メトロポリタン・ミュージアムのカフェテリアの一つからは窓越しにオベリスクの東面が良く見えます。メトロポリタン・ミュージアムは膨大なコレクションを展示しており大変広いので、歩き回っていると疲れきってしまうのですが、オベリスクを見ながらカフェテリアで一休みするのも一興でしょう。

行き方:
 行き方はいろいろありますが、一番の近道は右の Google Map にあるメトロポリタン美術館の南側の五番街と East 79th Street (79丁目)の交差点からセントラル・パークに入るコースになります。
 公園に入ったところにある「Group of Bears」というクマの彫像の前を横目に見ながらメトロポリタン・ミュージアムの脇を通っていくと石造りのGreywacke Arch(グレーワッケ・アーチ)という名前のトンネルが見えてきます。そこをくぐってその先を右折するとオベリスクが見えてきます。
 セントラル・パークには西59丁目のプラザ・ホテルの前かコロンバス・サークルから入ることが多いのですが、セントラル・パークは南北は4kmほどもあってとても広いので、西59丁目からオベリスクの立っているほぼ中央部までは、遊歩道が真っすぐな道ではないため、道のりは2km以上にもなります。このため、シープメドウなどセントラル・パーク自体の観光を兼ねるのでなければ、メトロポリタン・ミュージアムを参観したついでに上記のコースで訪れるのがよいでしょう。


土台につけられたプレート 土台につけられたプレート
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オベリスクについて:
 このオベリスクは紀元前15世紀のトトメス3世がエジプト、ヘリオポリスに建てた1対のオベリスクのひとつです。
 トトメス3世はオベリスクを少なくともヘリオポリスに2本、カルナックに7本、合計9本立てたと言われています。そのうちヘリオポリスの2本のオベリスクは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス帝(在位 B.C. 27 - A.D. 14)が紀元前23年~12年頃に、アレキサンドリアのカエサリウム神殿(*1)の正面に飾るためにアレキサンドリアに運んできました。その後神殿は荒廃してオベリスクだけが残ったのですが、それも 1303年の大地震(*2)で西側の1本は倒れてしまいました。
 19世紀後半になって、その倒れていた方はロンドンに運ばれてしまいました。それがいま ロンドン、ビクトリアエンバンクメントにあるオベリスク です。そして、残っていた方(大地震にも倒れなかった方)が後にニューヨークに運ばれましたが、それがこのオベリスクです。
 なお、オベリスクの現在の高さは 21.21 m とされています。(*3)
(*1)カエサリウム神殿は、セバステウムとも呼ばれ、ローマ皇帝を崇拝するために建設された大きな立派な神殿だったようですが、詳細な記録は残っていません。オベリスクはいまのアレキサンドリアの「メトロポールホテル」の場所に立っていたと、フランスの考古学者ジャン=イヴ・アンプルールは述べています。(出典: "Alexandrie Redecouverte" by Jean-Yves Empereur, 1998 Librarie Artheme Fayard)
(*2)1303年の地震は、古代の世界七不思議のひとつに数えられていた「アレキサンドリアの大灯台」にも大打撃を与えたようです。
(*3)出典: Labib Habachi: The Obelisks of Egypt

オベリスクの再建の様子オベリスクの再建の様子
F.S.Cozzens 画
EGYPTIAN OBELISKS 所収
(Henry H. Corringe 1882)


 ラビブ・ハバシュの「エジプトのオベリスク」によれば、このオベリスクのピラミディオンの各面には、ヘリオポリスの神々に供物をささげるスフィンクスの姿をしたトトメス3世の図像が描かれていると記載されています。あまり鮮明ではありませんが、北面の頂上部にそれらしいレリーフを見ることが出来ます。また柱身には3列のヒエログリフが彫られています。中央の行はトトメス3世のもので、両側のヒエログリフはラムセス2世があとで付け加えたものです。 東面はかなりきれいに碑文が残っているのですが、その他の面は柱身がかなり傷んでいて、特に南側と西側の面はヒエログリフがほとんど読み取れません。
 なお、両者の碑文の方向を比較すると、ヘリオポリスの神殿にペアで立っていた頃には、現在のニューヨークのものが神殿に向って左側、ロンドンのものが右側に立っていたものと思われます。さらに、ニューヨークの現在の南面、ロンドンの現在の北面が、それぞれ元々立っていたときには正面であったものと推定されます。
 エジプトとは異なって雨が多く、交通量も多いニューヨークの中心部にオベリスクは置かれているため、近年は汚れや酸性雨による劣化が目立っていました。このため、2011年1月には当時エジプト考古最高評議会の事務総長であったザヒ・ハワス氏が十分な保存が為されていないことに対する警告も発していました。それを受けてニューヨーク市のセントラル・パークの管理局とメトロポリタン美術館は3年間にわたる準備期間を経て、2014年の5月に、オベリスクを足場で囲った大規模な清掃作業を行いました。清掃作業が行われる前は、このオベリスクはかなり黒ずんでいたのですが、現在では本来の色を取り戻しています。

ニューヨークへ運ばれた経緯と再建: このニューヨークの「クレオパトラの針」のお話は、1869年にスエズ運河が開通したときに始まります。 そのとき、アメリカがスエズ運河開削工事を援助してくれたお礼として、エジプトのカディーブ(総督)イスマイル・パシャがアメリカにオベリスクを寄贈することを申し入れました。 最初、アメリカ側はその話にあまり関心を示さなかったようですが、1877年になって、オベリスクがロンドンに建てられるという話がアメリカに伝わると、アメリカにもぜひほしいということになって急に交渉が始まり、2年後の1879年に移築の認可が下りました。
 オベリスク本体(推定 193 トン)と台座(推定約50トン)の運搬はヘンリー・ゴリンジ(Henry H. Gorringe)という米海軍少佐がすべて取り仕切りました。彼は移設作業に関する詳細な記録を"EGYPTIAN OBELISKS"という1882年に出版された著作に残しています。幾多の困難の末オベリスクは、右舷の船首近くに穴を開けそこから滑り込ませられるように改造した蒸気船「デソーグ号」に搭載され、台座とともに1880年6月12日アレキサンドリア港を出発しました。
 ジブラルタル経由で大西洋を渡り、1880年7月20日ニューヨーク港の入口に当たるスタテン島沖に到着しました。オベリスクがスタテン島で降ろされたあと、台座はそのまま「デソーグ号」によってハドソン川を上り、7月20日、西51丁目ピアで陸揚げされ、二頭一組なった32頭の馬にによって建設地に予定されていたセントラルパークの中の小さな丘(Graywache Knoll)まで運ばれました。一方オベリスクは、スタテン島で木製のポンツーン(平底船)に移し替えられ、9月17日、西96丁目のスリップ(修理用船台)で陸揚げされ、西86丁目、フィフスアベニュー経由で82丁目から公園に入り、1881年1月5日現地に到着しましたました。2マイル足らずの距離を4か月近くかかったので、その平均スピードは一日たった97フィート(30メートル足らず)ということになります。


青銅製のカニ 底面部に取り付けられた青銅製のカニ

青銅製のカニについて: このオベリスクの底面は4隅が欠けていて、見るからに不安定な形状になっており、少しの横揺れでも倒れてしまいそうです。このためか、オベリスクの欠けた部分には4匹の青銅製のカニが、詰め物のような形ではめ込まれており、注意して見ると、カニの爪の部分には英文でこのオベリスクの由来などが刻まれています。
 筆者は、この青銅製のカニはセントラル・パークに再建された際にはめ込まれたものと考えていました。ところがメトロポリタン・ミュージアムにはローマ時代に作られた2体の青銅製のカニが保存されていることが分かりました。たしかに現在オベリスクの底辺部に置かれている青銅製のカニはセントラル・パークに再建された際に作られたものですが、元々、アレキサンドリアに建てられたときにも青銅製のカニが作られているので、カニのアイデア自体は古代ローマ人のものであることが分かりました。
 メトロポリタン・ミュージアムのウェブサイトの記述によれば、この2体の青銅製のカニは、オベリスクのニューヨークの移設を指揮したヘンリー・ゴリンジがメトロポリタン・ミュージアムに寄贈したものであることも分かりました。オリジナルの青銅製のカニにはギリシャ語とラテン語による説明文が彫られているようです。

ニックネームについて: ロンドンとニューヨークにあるオベリスクは両方とも「クレオパトラの針」(Cleopatra's Needle)と呼ばれていますが、クレオパトラ(有名な女王クレオパトラ7世)とは実際には関係ありません。このオベリスクがアレキサンドリアに運ばれたのはクレオパトラの死後20年近く経ってから、ローマ帝国の治世下です。これについてエジプト研究者ラビブ・ハバシュは「多分この命名にはロマンチックな面がある。」と述べています。(出典: "The Obelisk of Egypt" by Labib Habachi, 1977 Charles Scribner's Sons)
 他に、クレオパトラと関係ないのにクレオパトラという名前がついている例としては、『クレオパトラの浴場』がアレキサンドリア、メルサマトルーフ(アレキサンドリアの西300kmにある地中海岸の都市)やアスワン(エジプト南部)にあるということですし、アレキサンドリアとナイル河を結ぶ運河は『クレオパトラ運河』とも呼ばれているということです。このオベリスクの場合、16世紀にテヴェ(André Thévet)というフランスのランシスコ会修道士(探検家でもあった)が残したスケッチにすでに「クレオパトラの針」という表現が見られるということです。

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東面

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北面

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西面および南面

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南面
2017年8月16日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

撮影メモ:
 オベリスクの南側と西側はすぐ近くまで森になっているため、オベリスクをかなり急角度で見上げる格好でしか撮影ができませんでした。セントラルパークの人通りの多い場所からは外れているため、ここを訪れる人はさほど多くはありませんので、ゆっくりと撮影することが出来ました。


共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org