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クレオパトラの針(ニューヨーク)

現在地:  ニューヨーク、セントラルパーク[メトロポリタン・ミュージアムの西側]
北緯 40°46′46.67″(40.779625) 西経 73°57′55.44″(-73.965396)
創建王:  トトメス3世(新王国第18王朝、在位 紀元前15世紀)
高さ:  21.9メートル
他に諸説あり
石材:  赤色花崗岩

場所と行き方:
 ニューヨークの有名なセントラルパークの中にあります。メトロポリタン・ミュージアムのちょうど西側です。行き方はいろいろありますが、一番の近道は 右 の Google Map にある五番街と East 79th Street (79丁目)のところから公園に入ります。
 入ったところにある「Group of Bears」というクマの彫像の前を横目に見ながらメトロポリタン・ミュージアムの脇を通っていくと石造りのトンネル(グレーワッケ・アーチ)が見えてきます。そこをくぐってその先を右折するとオベリスクが見えてきます。
クレオパトラの針(ニューヨーク) 少し右に傾いて見えるのは
目の錯覚だろうか


 セントラルパークといえば、シープメドウやベセスダファウンテンに多くの人が集まりますが、この場所はセントラルパークでも比較的淋しい場所です。 にぎやかなニューヨークの中でも、これは感慨深いことです。
 また偶然ですが、オベリスクがここに建てられてから約100年後の1987年になって、近くのメトロポリタン・ミュージアムの中のサックラーウイング(Sackler Wing)にこれまた古代エジプトの遺跡、デンドゥール神殿が移転されてきました。 【正確には、サックラーウイングに移されたのではなく、神殿を設置するため新たにサックラーウイングが作られたのです。また、古代エジプトと言ってもローマ帝国の支配下にあった紀元前1世紀のもので、比較的新しいです。】 つまり、古代エジプトの真正な遺跡が二つもセントラルパークにあることになるわけです。 メトロポリタン・ミュージアムを訪れる人は多いですが、オベリスクまで足を伸ばす人はあまりないようです。 メトロポリタン・ミュージアムに行かれた方は、ぜひこちらにも行ってみてほしいと思います。
 さらに余談ですが、上に述べたグレーワッケ・アーチも芸術的なトンネルです。解説は英語ですが こちら にあります。】

オベリスクについて:
 このオベリスクは紀元前15世紀のトトメス3世がエジプト、ヘリオポリスに建てた1対のオベリスクのひとつです。まさに1700年の時を経たエジプトの遺物で、ほんまもんです。
 トトメス3世はオベリスクを少なくともヘリオポリスに2本、カルナックに7本、合計9本立てたと言われています。そのうちヘリオポリスの2本のオベリスクは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス帝(在位 B.C. 27 - A.D. 14)が紀元前23年~12年頃に、アレキサンドリアのカエサリウム神殿【注1】の正面に飾るためにアレキサンドリアに運んできました。その後神殿は荒廃してオベリスクだけが残ったのですが、それも 1303年の大地震【注2】で西側の1本は倒れてしまいました。
 19世紀後半になって、その倒れていた方はロンドンに運ばれてしまいました。それがいま ロンドン、ビクトリアエンバンクメントにあるオベリスク です。そして、残っていた方(大地震にも倒れなかった方)が後にニューヨークに運ばれましたが、それがこのオベリスクです。
【注1】 カエサリウム神殿は、セバステウムとも呼ばれ、ローマ皇帝を崇拝するために建設された大きな立派な神殿だったようですが、詳細な記録は残っていません。オベリスクはいまのアレキサンドリアの「メトロポールホテル」の場所に立っていたと、フランスの考古学者ジャン=イヴ・アンプルールは述べています。(出典: "Alexandrie Redecouverte" by Jean-Yves Empereur, 1998 Librarie Artheme Fayard)
【注2】 1303年の地震では、古代の世界七不思議のひとつに数えられていた「アレキサンドリアの大灯台」にも大打撃を与えたようです。
土台につけられたプレート 土台につけられたプレート
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 塔頂のピラミディオンの各面には、ヘリオポリスの神々に供物をささげる「スフィンクス」の姿をしたトトメス3世の図像が描かれ、柱身には3列のヒエログリフが彫られています。真ん中はトトメス3世のもので、両側のヒエログリフはラムセス2世があとで付け加えたものだそうです。 柱身はひどく傷んでいて、ヒエログリフはほとんど読み取れませんが、「ピラミディオンから放たれる光がヘリオポリスの都を照らす」という意味のことが書かれていたということです。

ニューヨークへ運ばれた経緯と再建: このニューヨークの「クレオパトラの針」のお話は、1869年にスエズ運河が開通したときに始まります。 そのとき、アメリカがスエズ運河開削工事を援助してくれたお礼として、エジプトのカディーブ(総督)イスマイル・パシャがアメリカにオベリスクを寄贈することを申し入れました。 最初、アメリカ側はその話にあまり関心を示さなかったようですが、1877年になって、オベリスクがロンドンに建てられるという話がアメリカに伝わると、アメリカにもぜひほしいということになって急に交渉が始まり、2年後の1879年に移築の認可が下りました。
 オベリスク本体(推定 193 トン)と台座(推定約50トン)の運搬はヘンリー・ゴリンジ(Henry H. Gorringe)という米海軍少佐がすべて取り仕切りました。 幾多の困難の末オベリスクは、右舷の船首近くに穴を開けそこから滑り込ませられるように改造した蒸気船「デソーグ号」に搭載され、台座とともに1880年6月12日アレキサンドリア港を出発しました。
 ジブラルタル経由で大西洋を渡り、1880年7月20日ニューヨーク港の入口に当たるスタテン島沖に到着しました。オベリスクがスタテン島で降ろされたあと、台座はそのまま「デソーグ号」によってハドソン川を上り、7月20日、西51丁目ピアで陸揚げされ、二頭一組なった32頭の馬にによって建設地に予定されていたセントラルパークの中の小さな丘(Graywache Knoll)まで運ばれました。一方オベリスクは、スタテン島で木製のポンツーン(平底船)に移し替えられ、9月17日、西96丁目のスリップ(修理用船台)で陸揚げされ、西86丁目、フィフスアベニュー経由で82丁目から公園に入り、1881年1月5日現地に到着しましたました。2マイル足らずの距離を4か月近くかかったので、その平均スピードは一日たった97フィート(30メートル足らず)ということになります。
 1881年2月22日、1万人以上の人々が見守る中で除幕式が行われ、当時の合衆国国務長官ウイリアム・マクスウエル・エバートは次のように問いかけました。 「実際、我が国はそれがどんなに不法なことだとしても実現可能とあれば何でもやるだろう。 だがオベリスクは我々にこう尋ねるかもしれない。 『おまえたちは永遠にこの繁栄が続くと思っているのだろうか?富が蓄積すれば、人類は滅びることがないと思っているのか? ぜいたくという名のやわらかなひだがこの国のまわりをぴったりと包んでくれれば、国民の精力と活力が尽きることもないと考えているのだろうか? 衰弱がおまえたちの上にしのび寄っても、それでも国家が滅びることを知らずにすむと思っているのか?』 このような問いに答えられるのは様々な歴史の営みをながめてきたオベリスクだけだろう。 我々の短い生涯の中では、とても答えることの出来ない問いかけである。」(訳:吉村作治、出典:六興出版「エジプトのオベリスク」1985年)

ニックネームについて: ロンドンとニューヨークにあるオベリスクは両方とも「クレオパトラの針」(Cleopatra's Needle)と呼ばれていますが、クレオパトラ(有名な女王クレオパトラ7世)とは直接関係ありません。実際にこのオベリスクがアレキサンドリアに運ばれたのはクレオパトラの死後20年近く経ってからです。これについてエジプト研究者ラビブ・ハバシュは「多分この命名にはロマンチックな面がある。」と述べています。(出典: "The Obelisk of Egypt" by Labib Habachi, 1977 Charles Scribner's Sons)
 他に、クレオパトラと関係ないのにクレオパトラという名前がついている例としては、『クレオパトラの浴場』がアレキサンドリア、メルサマトルーフ(アレキサンドリアの西300kmにある地中海岸の都市)やアスワン(エジプト南部)にあるということですし、アレキサンドリアとナイル河を結ぶ運河は『クレオパトラ運河』とも呼ばれているということです。このオベリスクの場合、16世紀にテヴェ(André Theacute;vet)というフランスのランシスコ会修道士(探検家でもあった)が残したスケッチにすでに「クレオパトラの針」という表現が見られるということです。

撮影メモ: (四方向から高解像度撮影はまだです)


共同著作・編集: 長瀬博之 nag2jp@ gmail.com、岡本正二 shoji_okamoto31@yahoo.co.jp