クレオパトラの針 (パリ) オベリスク全リストへ戻る

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現在地:  パリ、コンコルド広場
北緯
48°51′55.7″(48.865483) 東経2°19′16.0″(2.321122)
創建王:  ラムセス2世(新王国第19王朝,在位,紀元前13世紀)
高さ:  22.83 メートル
重さ:  推定 227 トン
石材:  赤色花崗岩

場所について:
 コンコルド広場はパリの代表的な広場の一つです。広さは8.6ヘクタールあり、パリ市内では最大の広場です。18世紀中ごろに作られ、当初はルイ15世広場と呼ばれていましたが、フランス革命の際に革命広場と改称され、さらに1830年にコンコルド広場が正式名称となりました。コンコルド広場から西側に凱旋門までシャンゼリゼ通りが伸びていて、広場の東側はチュイルリー庭園、南側はセーヌ川をはさんでフランスの国会議事堂があります。
 広場の中央に立つオベリスクから見ると、西側に延びるシャンゼリゼ通りの先に凱旋門が見えるのが感動的ですが、広場の北側に二つの大きく重厚なビルが対称的に建てられているのがとても印象的です。東側のビルはフランス海軍省、西側のビルはオテル・デ・クリヨンの建物になっています。
 コンコルド広場はパリの中心地であり、世界でも有数の観光地です。この広場の中央にそびえるオベリスクはコンコルド広場のシンボル的な存在でもあります。おそらく、世界のオベリスクの中で最も多くの人に見られているオベリスクで、最も晴れがましいオベリスクと言って良いでしょう。

コンコルド広場のオベリスク世界で最も晴れがましいオベリスクです。

行き方:
 最寄りの公共交通機関はメトロの1号線・8号線・12号線が通るコンコルド駅です。駅は広場の北側にありますので、駅から地上に出ればコンコルド広場は容易に見つかります。広場の中央にはオベリスクが立っています。また、凱旋門からシャンゼリゼ通りを歩いて東側に向かってもコンコルド広場に着きます。凱旋門からコンコルド広場までは約2.1kmです。逆にルーブル美術館からセーヌ川沿いまたはチュイルリー庭園の中を西側に向かっても着きます。こちらの距離は約1.2kmです。凱旋門、ルーブル美術館のいずれもパリ有数の名所ですから、これらの場所を訪れるついでにコンコルド広場に行くのでも良いでしょう。

オベリスクについて:
 このオベリスクはクレオパトラの針(Cleopatra's Needle)と呼ばれます。こう呼ばれるオベリスクは、他にニューヨークのセントラルパークと、ロンドンのビクトリア・エンバンクメントにもあります。ニューヨークとロンドンにあるクレオパトラの針は、元はトトメス3世が建てたもので、エジプトのアレキサンドリアに対で残っていたものですが、このオベリスクはエジプト・ルクソールのルクソール神殿に、ラムセス2世によって立てられた一対のオベリスクのうちの1本で、19世紀にパリに運ばれてきたものです。このため、他の2本のクレオパトラの針とは由来を異にするものなのですが、なぜか同じニックネームで呼ばれています。
 フランス政府はオベリスクをエジプトから入手することを考え、ジャン・バプティスト・アポリネール・ルーバというフランスの海軍技官が1年間かけてエジプト総督のムハンマド・アリと交渉し、ルクソール神殿前のオベリスクを入手する許可を正式に得ました。1831年6月8日のことです。当初はルクソール神殿の正面に立つ2本を両方とも運び出す計画でしたが、ヒエログリフを解読したシャンポリオンの助言もあって、左右のうちで比較的に保存状態が良かった右側のオベリスクが、まず最初に運び出されることになりました。そして1836年10月25日に、国王ルイ・フィリップ臨席のもとに、パリのコンコルド広場の真ん中に立てられ、ここに大事業はついに完結したのです。
 このオベリスクの移築に認可を与えてくれたムハンマド・アリに対しては、国王ルイ・フィリップから大きな時計が返礼として贈られました。その時計はカイロのシタデル(城塞)にある、ムハンマド・アリモスクの中庭に面した時計塔にはめ込まれて今も残っています。一方、許可の手続きから運搬、再建のすべてにかかわったルーバに対しては、メダリオンと褒賞が授けられました。
 なお、ルクソール神殿の正面左側のオベリスクは、フランスとエジプトの関係が悪化したことによって搬出が不可能になり、持ち出されずにそのまま残りました。
 いまこのオベリスクを見ますと、柱頭に異様に輝く三角錐が気になります。これは1998年5月に新たに付けられたピラミディオン(ピラミッド型のキャップ)で、高さ3.6メートルのブロンズ(青銅)製で、表面は23.5カラットの金箔で覆われているとのことです。遠くからでも角度によってはよくわかります。 もともとこのオベリスクにはピラミディオンが付いていたのですが、紀元前6世紀にアッシリア(ペルシャ)人の侵入者によって盗まれたと伝えられます。 コンコルド広場に再建するとき、専門家はフランス当局に対し、頂点にピラミディオンを付けて元来の壮麗さを回復するよう主張しましたが、そのままになっていました。 しかし1997年に、フランスとエジプトの関係を記念する祝賀の一部として、フランスのシラク大統領が150万フラン(約25万2千ドル)の資金援助に同意して、金のピラミディオンが実現しましたものです。古色を帯びた石のオベリスクにはそぐわない気がしますが、これも年月を経れば違和感がなくなるのでしょうか。
 オベリスクの台座部分には金色に彩色された碑文などがあります。まず台座の東面にはラテン語で由来が記述されています。西面にはフランス語で由来がかかれていますが、ラテン語の碑文とは内容が少し異なっています。また、南北の面にはオベリスクを運んだ時の状況が図示されています。北面にはルクソール神殿の正面右側に建っていたオベリスクを搬出する様子が描かれており、南面はコンコルド広場にオベリスクを立てた時の様子が説明されています。
 次に、ルクソール神殿に残っている左側のオベリスクと比較してみます。古代エジプト人は対称性を非常に重視したので、左右のオベリスクの碑文の上側に彫られているホルス神の向きには決まりがあります。正面と背面のホルス神はオベリスクではさまれた参道の方を向いており、側面のホルス神は神殿の奥の方を向いています。このためコンコルド広場のオベリスクは西の面が、ルクソール神殿の前に建っていた時には正面であったことが分かります。同様に現在の南面は右側面、北面は左側面、東面は背面でした。
 ルクソール神殿に残っているオベリスクも4面の碑文は異なっていますが、コンコルド広場のオベリスクも異なっています。つまり、ルクソール神殿の第1塔門の左右に建っていたときには8面がそれぞれ異なる文章であったことになります。

撮影メモ:
 コンコルド広場は観光名所ですから昼間は多数の観光客で賑わっていますが、早朝の時間帯であれば人出も少なく落ち着いて撮影ができます。2015年の5月にコンコルド広場を訪れた時には運悪く2日間小雨まじりの天候で、あまり美しい写真は撮影できませんでしたが、2017年4月に再訪した時には晴天に恵まれました。なお、2017年に再訪した時にはオベリスクの東側に大きな観覧車ができていたので驚きました。

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東面

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西面

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北面

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南面
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東面

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西面

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北面

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南面

2017年4月29日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org