ラムセス2世のオベリスク (ポズナン考古学博物館) オベリスク全リストへ戻る

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現在地:  ポーランド、ポズナン、ポズナン考古学博物館
北緯
52°24'26.8"(52.407445) 東経16°56'04.3"(16.934517)
創建王:  ラムセス2世(新王国第19王朝、在位 紀元前13世紀)
高さ:  3.00メートル
重さ:  1.8トン
石材:  灰色花崗岩

場所について:
 ポズナン考古学博物館は19世紀に遡る歴史を持つ博物館ですが規模は大変小さいです。ポーランドの出土品を展示するコーナーとエジプト、ヌビアの展示品などで構成されています。小さな博物館にもかかわらず、ラムセス2世のオベリスクがあるのですが、ネフェルティティの胸像などのコレクションで知られるベルリンの国立博物館から貸し出されているものです。2002年からこの博物館に長期貸し出しが行われているので、すでに14年間も貸し出されていることになります。

考古学博物館
考古学博物館の建物


 ベルリン博物館のDietrich Wildung教授とポズナン考古学博物館のLech Kryzaniak教授の間で、この貸し出しの話が進められたようですが、両者のスーダンとエジプトにおける長年の研究での友好関係が理由に挙げられています。ポズナン考古学博物館のウェブサイトには、このオベリスクが博物館内に設置される工事の様子が記録として残されています。
 オベリスクの立てられているのは広間のような場所ですが、よく見ると周囲の建物には窓がついているので、元々はこの場所は広間ではなく、中庭であったところに後で天井が付けられて部屋に改装されたものと考えられます。
 この博物館は規模は小さいですが、長年エジプトで発掘調査に携わっている考古学者がスタッフにいることもあって、常設展示されているラムセス2世のオベリスクに関連したウェブサイトの記述は大変充実しています。特にオベリスク全般に関する説明は詳しくて優れており、古王国時代の墓の前に建てられた小型のオベリスクや、アブシールの太陽神殿に建てられた大型のオベリスクなどの説明があります。オベリスク全般について学べるのでぜひご覧になることをお勧めします。

行き方:
 ポズナンは人口55万人の都市ですが、観光名所となっている旧市街はごく狭い範囲です。その中心の場所がオールド・マーケット・スクエアという場所で、旧市庁舎の周りが広場になっています。多くの観光客で賑わっており、広場には多くのカフェやレストランなどがあります。おそらくポズナンを訪れる観光客の大半がこの広場を訪れることと思います。
 ポズナン考古学博物館はオールド・マーケット・スクエアの東南側の隅のすぐ近くにあります。広場の東側にならぶ商店に沿って南に下って狭い道に入ると、すぐに壁に"MUZEUM ARCHEOLOGICZNE"という文字と絵が描かれた黄色い建物が見えますが、そこが考古学博物館です。小さな建物なので「これが本当に博物館?」と疑いたくなりますが、注意してみると考古学博物館らしいポスターや展示物が目につくはずです。


ポズナン考古学博物館の入口
考古学博物館の入口

 ところが、筆者は博物館の建物にはすぐに行き着いたのですが、その周囲を散々探し回る羽目になりました。閉まっている駐車場の出入り口があるだけで、入口が見つからないのです。このため、「本当にここが博物館なのか?」、「休みなのではないか?」と戸惑いました。しかし周囲を歩き回っていると、建物の窓ガラス越しにオベリスクが見え、しかもその周囲には親子連れの参観者がいるのが見えたので、ようやくどこかに入口があるはずだと確信が持てました。結果的には隣の赤い建物に閉まっているドアがあるのですが、鍵はかかっておらず開けば中に入れるのでした。世界中探しても、博物館の入口が中が見えないドアで閉ざされている例は少ないと思います。

オベリスクについて:
 このオベリスクは先端のピラミディオン部が失われていて、現在の金色のピラミデイオンはポズナン考古学博物館に展示される際に付け加えられたものです。3.00mという高さはピラミディオン部を除いた本体部分の数値です。ポズナン考古学博物館の説明文によれば、このオベリスクは元はナイルデルタのアトリビスにあったケンティ・ケティ神の神殿の前に2本ペアで建てられていたものです。
 アトリビスという地名はギリシャ語名で、下エジプト第10ノモスの中心地であった街です。カイロから約50km北の現在のバーナ(Benha)の付近にありました。
 このオベリスクはカイロの住宅の敷居の石材として使われていたものが19世紀に発見されました。おそらく石材として転用されたときにピラミディオンの部分は失われ、オベリスクの1面が損傷を受けています。その後1895年にドイツの領事であったCarl Reinhardtによって、このオベリスクは欧州に運ばれ、1896年からはベルリン博物館が所有しています。
 なお、ポズナン考古学博物館の説明によれば、ペアであった他の1本はカイロのエジプト博物館に保存されていると記載されていますが、残念ながらエジプト博物館では公開されていません。また、エジプト博物館の収蔵品のリストを参照してみると、このオベリスクを含む2本のオベリスクの台座が登録(JE 72147)されていましたが、もう一方のオベリスク本体に関する記述は見つかりませんでした。

板で囲まれたオベリスク
板で囲まれたオベリスク


 このオベリスクにはラムセス2世、メルエンプタハ、セティ2世の3人の第19王朝の王名が刻まれています。博物館の説明では、4面の碑文は同じような構成になっていますが細部は異なっているとのことです。ここでは便宜的にオベリスクの説明文のパネルが置かれている面を正面として説明します。
 中央の碑文にはラムセス2世のホルス名、即位名、誕生名がありますが、博物館の説明によりますと、まず中央の碑文のラムセス2世の王名は凹んでいることから、以前は他の王の名前があった部分が彫り直されたものと推定されていて、以前の王名はアメンホテプ3世かもしれないと考えられています。次にラムセス2世の後を継いだメルエンプタハはオベリスクの下の方に名前を加え、さらに上の方の空いていた部分はセティ2世の王名で埋められました。また、セティ2世の名前の中のセト神を意味する部分は後代に破壊されており、それは後にセト神がオシリス神の仇とみなされるようになったのと、さらにエジプトに侵入した周辺の国々の守護神と考えられるようになったからだと述べられています。
 4面のうち左面の碑文は中央部が削られていますが、敷居の石に使われていたので人が上を歩いて磨り減ってしまったのかもしれません。碑文の彫りが深いこともあって他の面は保存状態は良好です。びっしりと碑文で埋め尽くされている黒いオベリスクなので、独特な雰囲気があります。

撮影メモ:
 どのような理由からかは定かではありませんが、2016年4月に筆者が訪れた時には、このオベリスクの周囲は板で囲まれていて、撮影には大変苦労しました。博物館に入って、このオベリスクに対面した時には、あまりのむごさにとてもがっかりして、思わず「何これ?」と呟いてしまいました。広間の中央にオベリスクは設置されているので、囲いさえなければ四方からの写真撮影は容易であったと思われますが、今では壁とオベリスクの間の間隔が狭いために正面以外の全体の写真は撮影できなくなってしまいました。ただ、幸いなことに博物館の2階の窓を開ければ、オベリスクの左右の面はオベリスクを見下ろす形で撮影できたため、博物館の係員の許可を得て撮影をしました。裏面は左斜め後方からの写真を用いています。

poznan_ramses_front.jpg
正面

poznan_ramses_right.jpg
右面

poznan_ramses_left.jpg
左面

poznan_ramses_leftandback.jpg
左面と背面

2016年4月23日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org