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大きな地図で見る          metoro.gifは地下鉄駅を表す記号です

ドガリのオベリスク(別名:テルメ・オベリスク)

現在地:  ローマ、ディオクレティアヌス浴場跡
共和国(レプブリカ)広場の南東の三角形の公園の中
北緯
41°54′7.8″(41.902167) 東経12° 29′50.9″(12.497472)
創建王:  ラムセス2世(新王国第19王朝、在位 紀元前13世紀)
高さ:  オベリスクのみ 約5.4 メートル
詳しくは下記の「オベリスクについて」をご覧ください
重さ:  不詳
石材:  赤色花崗岩

場所について:
 オベリスクは共和国(レプブリカ)広場の南東、ディオクレティアヌス浴場跡の横にある三角形の公園の中に建っています。ディオクレティアヌス浴場は 306年にディオクレティアヌス帝によって建設されたローマ最大の浴場です。今ではその遺構は、ローマ国立博物館やサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会になっています。サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会はミケランジェロが設計をした教会です。規模は小さいですが、内部はアーチ状の天井が目を引く美しい教会です。
 イタリアでは、日本の感覚では広場と言うほどの広さでもないスペースであっても、きちんと広場名が名付けられている場合が多いので、この公園に名前が無いのが気になっていました。そこで The-Colosseum.net というウェブサイトなどに掲載されているいくつかのローマの古地図と現在の地図を見比べてべてみたところ、元のディオクレティアヌス浴場は今の遺構よりもずっと広く、9月20日通り、ヴィットリオ・エマニュエーレ通り、ソルフェリーノ通り、ゴーイト通りで囲まれる四角形が敷地であることが分かりました。現在のディオクレティアヌス浴場跡とオベリスクの建っている公園を隔てている道(ルイージ・エイナウディ通り)は古地図には無く、公園の部分はディオクレティアヌス浴場の敷地内の、浴場の巨大な建物の右前のスペースのような場所であったようです。このため公園自体の名前は無く、オベリスクの所在地はディオクレティアヌス浴場となっているのだということが納得できました。
 なおレプブリカ駅の近くにはローマ三越があります。お土産用の小物なども揃っています。

行き方:
 ディオクレティアヌス浴場跡の横にある三角形の公園はテルミニ中央駅から 300mほどなので十分に歩いて行ける距離ですが、地下鉄A線を利用するのであれば1駅目のレプブリカ(Repubblica)で降りると駅からは 100m余りです。共和国(レプブリカ)広場の南東の、ディオクレティアヌス浴場跡の横にある三角形の公園の中にオベリスクは立っています。

dogali2.jpg台座部の実測値と推計値

オベリスクについて:
 このオベリスクはローマに運ばれた後、いまミネルヴァ・オベリスクが建っているサンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ聖堂の辺りにあったイシス神殿に建てられましたが、その後倒壊し地中に埋もれていました。
 1883年、考古学者ロドルフォ・ランチアーニ(Rodolfo Lanciani)の調査チームによって掘り出された後、碑文は直ちに解読されました。その結果、元々はラムセス2世がヘリオポリスの太陽神殿に建てたものであることと、もう片方のオベリスクはすでに(1790年)フィレンツェのボーボリ公園に行っていることが分かりました。
 掘り出されたオベリスクはしばらくそのまま放置されていたのですが、その2年後、エチオピアへの進出を目指したイタリア王国が、エチオピア帝国と間で戦争(エリトリア戦争)を起こしました。そして 1887年1月、エチオピアのドガリという所で、イタリア軍の補給隊 548名がエチオピア軍に攻撃され、全滅させられるという悲劇が起こりました。この戦闘をイタリアでは「ドガリの虐殺」と呼んでいます。
 戦没者を祀りイタリア国民の悲しみを鎮めるため、このオベリスクを慰霊碑として立てることになり、場所はローマ・テルミニ中央駅前が選ばれました(1887年6月5日竣工)。オベリスクの頭頂には「Stellone d'Italia」(ステローネディタリア)と呼ばれるイタリアを象徴する星がつけられ、台座部分には「ドガリの英雄達(AGLI EROI DI DOGALI)」と表題が書かれた青銅のプレートがつけられ、戦没者全員の氏名が浮彫りで記載されました。このような経緯から、このオベリスクは「ドガリのオベリスク」という名前で呼ばれています。
 ちなみに駅前広場はピアッツァ・デル・チンクエント(五百人広場)と呼ばれていますが、それは戦没者の数にちなんでいるということです。
 その後、1924年の駅前広場改修によって翌年、広場の少し北にある現在の場所に移されました。

 このオベリスクの高さは資料によってまちまちで、6.34m (*1) とか 9.25m (*2) などと書かれているのですが、現地に行って周囲に居る人物と比べてみると、オベリスクの本体は 6 m以下のように思え、その反面、台座を含めた高さは 10mをはるかに超えるので釈然としませんでした。
 このため 2014年に再訪した際に台座の部分の高さを実測しました。台座部分の実測値と、ディオクレティアヌス浴場側の42m離れた地点から撮影した写真から推計した結果、星の飾りの部分を除いたオベリスクの四角錐(ピラミディオン部)の先端からSPQRと書かれた台座の上までのオベリスクの石材の本体の高さは5.4mしかないことが分かりました。また階段の上から星の先端までは約 15mであることも分かりました。
 逆に、6.34mや9.25mという数値が、いったいどの部分の寸法なのかが気なるところですが、写真をよく見るとSPQRと書かれた石と、AGLI EROI DI DOGALI と書かれた台座の石との間には繋ぎ目があり、そこから星の金属部分を除いた頂上までの高さが 6.34mに相当するように思われます。つまり戦没者の記念碑として再建される前のオベリスクは繋ぎ目のところまでで、その高さが 6.34mであったのではないかと筆者は考えています。また、9.25mはAGLI EROI DI DOGALI と書かれた台座の石の下側までの高さに相当しました。
 オベリスクの碑文は4面ともに1行のヒエログリフが刻まれています。ヒエログリフの保存状態は良く、ラムセス2世のホルス名、即位名、誕生名などが刻まれているのが明瞭に判別できますが、下部は失われていて途中で文章が途切れています。
(*1 Wikipedia "List of obelisks in Rome")
(*2 The Obelisks of Egypt, Labib Habachi)

撮影メモ:
 観光客はここには訪れません。名も無い公園の中にひっそりとこのオベリスクは立っていますが、このオベリスクの存在を知っている人は少なくないようで、1年おきに2回訪れたときには、いずれもジョギングをしている人や普段着を着た人たちの憩いの場になっていました。なお、このオベリスクは東西南北の方位からはかなりずれた方向に向いているため、下記の写真では北西、南西、南東、北東と表記しています。

dogali_ne.jpg
北東面
2016年5月2日

dogali_nw.jpg
北西面
2016年5月2日

dogali_sw.jpg
南西面
2014年8月10日

dogali_se.jpg
南東面
2016年5月2日
撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org