ティルスのオベリスク オベリスク全リストへ戻る

大きな地図で見る
現在地:  レバノン、ティルス、ヒッポドローム跡地
北緯
33°16'04.8"(33.268010) 東経35°12'35.1"(35.209762)
創建王:  エジプト、アスワン産の石材を使って、ローマ人が制作したのではないかと思われる
高さ:  オベリスクのみ約9.5m、台座の高さ約2.5m
石材:  赤色花崗岩

場所について:
 ティルスあるいはギリシャ語名のテュロスが日本では一般的な呼称ですが、英文表記ではTyreですのでティールとも呼ばれます。現地ではスールというアラビア語の地名で呼ぶのが一般的です。
 ティルスはユネスコの世界遺産に、ビブロス、バールベック、アンジャルと共に1984年に登録されています。紀元前2500年ごろフェニキア人によって作られた町で、紀元前14世紀のアメンホテプ4世の時代のアマルナ文書の中にもその地名を記したものがあります。古代ローマとの闘いで知られるカルタゴは、元々はティルスの殖民都市として作られたものです。
 また、ティルスはアレキサンダー大王の東征の際に、フェニキアの都市の中では唯一長期間抵抗しました。フェニキア人の要塞は島に作られていて、制海権を持たなかった東征軍は苦戦しましたが、東征軍は島と陸地との間の海峡を7ヶ月間かけて埋め立てて地続きとし、ついにティルスの要塞は陥落しました。この経過は「アレクサンドロス大王東征記(岩波文庫)」にも詳細に記述されています。
 さらに紀元前64年にはレバノンの地域は共和制ローマの支配下に入り、ティルスはシドン、ビブロスなどとともにローマの市民権が付与されて、ローマ人の町として発展しました。現在のティルスの遺跡はローマ人によって建設されたものです。東ローマ帝国の衰退後にはイスラム勢力の支配下となりましたが、12世紀には十字軍の支配地域となったこともあります。

ヒッポドロームの入口にある凱旋門
ヒッポドロームの入口にある凱旋門


 ティルスにある遺跡は海岸近くにあるローマ時代のアゴラと、少し内陸部にあるヒッポドローム(円形競技場)の跡地とそれに続く大規模なローマ人の墓地に分かれています。ヒッポドロームの跡地はGoogle Mapの衛星写真でもその概要がある程度わかります。南北約400m、幅は約100mの長円形のトラックで、北側に競技者用のゲートの跡が残り、周囲には観客席が作られていました。今でも観客席の一部がかなりきれいに残っていて、階段を登って観客席の最上部まで行くことができます。また、競技場は広大で、ローマ市内に空き地になって残っている長さ約500mのチルコ・マッシモよりは小さいものの、イスタンブールのヒッポドロームの2倍くらいある大規模なものです。オベリスクは長円形のトラックの中央に立っています。


ヒッポドロームの中央に立つオベリスク

ヒッポドロームの中央に立つオベリスク

行き方:
 レバノンは内戦が長らく続き、南部はイスラム教シーア派の武装組織であるヒズボラの支配地域ですが、最南部のイスラエルとの国境地帯は国連レバノン暫定駐留軍(UNIFIL)が駐留して治安維持に当たっています。スールの町はUNIFILの管理地域内にあります。ベイルートからスールまでは、レバノンの国民であれば路線バスを乗り継いで行くことも可能ですが、レバノン政府の管理地域からヒズボラの管理地域に入る手前にはレバノン軍の検問所があり、さらにUNIFILの管理地域に入ったところにはUNIFILの検問所があります。
 路線バスを利用した場合には、検問の際にパスポートなどをチェックされ、バスから降ろされて取調べを受ける可能性もあります。また、レバノン南部は2015年5月の時点では外務省によって渡航延期勧告が出されていました。2015年9月には危険度レベル自体は変わっていないのですが、外務省の勧告文の表現が変わり、従来の渡航延期勧告は渡航中止勧告に変わり、「渡航は止めてください」の表現となっています。隣国シリアが内戦状態にあることから、レバノンの分割支配は長期化するものと思われ、渡航中止勧告の状態が今後も続くことが予想されます。このため、ティルスに行くには、単独行動は絶対に避け、現地の信頼できる旅行社の手配するパッケージツアーやガイド付きの専用車などに参加することを勧めます。ベイルートからティルスまでは約80kmで、整備された国道を走ります。途中数ヶ所の検問所がありますが、1時間半くらいで着きます。

オベリスクについて:
 このオベリスクやヒッポドロームには説明文が一切無いので詳細は分かりませんでしたが、オベリスクの台座部分は新しいので、1940年代から70年代前半にかけて行われていた大規模な発掘の後に修復されたものと予想はしていました。帰国後にネット上を調べてみましたら、Patricia M. Bikaiという女性の歴史学者が書いた"The Region of Tyre and Sidon"という文書が見つかり、そこにこのオベリスクのことが書かれていました。元は"The Madaba Map Centenary 1897-1997"というエルサレムで1999年に出版された書籍です。
 この文書によれば、オベリスクは1970年代のはじめに再建されたもので、ヒッポドロームの北の端に埋まっている状態で発見されたものです。西暦502年と551年に起きた大地震によってティルスの街は大きな被害を受けたので、おそらくオベリスクはその頃に倒れて地中に埋まっていたものだと思われます。先端部分が残っていれば一緒に修復されているでしょうから、まだ倒れたオベリスクが地上に残っていた時代に、先端部分は持ち去られて、建築用の石材などに利用されてしまったものと筆者は考えています。
 オベリスクが作られたのは紀元1~3世紀頃と見られますが、ローマ人によって作られたクイリナーレやエスクイリーノのオベリスクと同じように、碑文はまったくありません。しかし石材は一見して赤色花崗岩と分かりますので、石材はエジプトから運ばれたものと容易に想像がつきます。上記の"The Region of Tyre and Sidon"にもエジプトの赤色花崗岩のオベリスクと書かれています。
 先端部分は失われていますので、元の高さはわかりませんが、現存する部分も9.5mほどありますので、12~15m位はあったのかもしれません。カエサリアのオベリスクと同程度の大きさと思われます。

撮影メモ:
 ティルスにも外国人観光客はまったくいませんでしたが、町自体は至って平穏なので、渡航延期勧告が各国で出されていて観光客が皆無の状態になっているのは非常に気の毒な感じがしました。しかしティルスの街の治安が保たれているのはUNIFILが駐留しているためであり、UNと大書された白色の装甲車や、自動小銃を持ったUNIFILの兵士も見かけました。

tyre_north.jpg
北面

tyre_east.jpg
東面

tyre_south.jpg
南面

tyre_west.jpg
西面

2015年5月4日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org