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モンテチトーリオ広場(右)への徒歩コース |
モンテチトーリオのオベリスク
現在地: | ローマ、モンテチトーリオ広場(モンテチトーリオ宮殿前) 北緯41°54′2.5″(41.900695) 東経12°28′43.2″(12.478667) |
創建王: | プサメテク2世(プサメティコス2世、在位紀元前6世紀初め) |
高さ: | オベリスクのみ 21.79 メートル(72 フィート)。 台座と頂上の球体を含め 33.97 メートル[29 メートル(95 フィート)の説あり] |
重さ: | 230 トン |
石材: | 赤色花崗岩 |
モンテチトーリオのオベリスク 後ろの建物はモンテチトーリオ宮殿で、現在は代議院が使っています |
場所について:
このオベリスクがあるモンテチトーリオ広場はモンテチトーリオ宮殿の正面にあります。モンテチトーリオ宮殿は17世紀末に完成し、1871年からはイタリア代議院(下院)の議事堂として使われています。この建物は、ナヴォーナ広場の四大河の噴水や、ミネルヴァ・オベリスクの象の台座の彫像を作ったジャン・ロレンツォ・ベルニーニの設計です。
ベルニーニはバロック時代の代表的な彫刻家、建築家ですが、バチカンのサン・ピエトロ広場、クイリナーレ広場のサンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂もベルニーニの手になるもので、ベルニーニとオベリスクのある場所とはかなり縁が深いのです。映画の「天使と悪魔」(ダン・ブラウン原作)ではベルニーニはイルミナティのメンバーとされており、オベリスクもイルミナティに関連して描かれていますが、このような場所の一致性に由来しているのかもしれません。ただ実際には、ベルニーニに委嘱されたほど重要な場所なのでオベリスクが建てられたということのようにも思われます。
行き方:
地下鉄A線のバルベリーニ駅(Barberini)あるいはスパーニャ駅(Spagna)が比較的近いですが、駅からは 600mぐらいあります。バスですと 175番系統 Partigiani 行きのバスで Corso-Minghetti で降りると、北西に 200mほどで行けます。
パンテオン前のオベリスクからの距離は約 250mです。ロトンダ広場の北側にあるカフェの右側の路地を北上し、コロンネッレ通りという細い道を東に進み、小さな広場を通り過ぎて、さらに 100mほど東に向かっていくと、モンテチトーリオ広場の南端に着きます。道順自体は単純なのですが裏通りの横丁といった感じの細い道なので、分かりにくいかもしれません。右下の航空写真にコースを記入しましたので参考にしてください。
オベリスクについて:
このオベリスクは、元来はヘリオポリスに2本一組で立っていたもので、第3中間期第26王朝のプサメテク2世によって建てられたものです。プサメテク2世はミネルヴァ・オベリスクとウルビーノのオベリスクを作ったウアフイブラー王の父親でもあります。また、プサメテク2世は紀元前 595~589年の6年間しか在位していなかったファラオなので、オベリスクの建設年代が非常に狭い期間に特定されます。
紀元前 31年にエジプトを征服したオクタヴィアヌスは、紀元前27年に初代皇帝アウグストゥスとなり、紀元前10年に2本のオベリスクをヘリオポリスからローマに運び出しました。そのうちの1本がこれで、もう1本は、いまポポロ広場に フラミニオ・オベリスク として残っています。
なおこの2本が、その後たくさんローマに運ばれることになるオベリスクの最初のものです。
ローマに運ばれたあと、こちらのオベリスクは日時計の柱として建てられました。このオベリスクによって作られた巨大な日時計は「アウグストゥスの日時計」として知られています。このため、このオベリスクは太陽のオベリスクの意味の「ソラーレ・オベリスク」とも呼ばれています。
左端の建物が日時計のあった場所 右端に少し旧オリンピア劇場が見える パルラメント広場の南西隅から北東側を撮影 |
日時計があった場所は、サミュエル・ボール・プラートナーの「古代ローマの地形辞書」(1929)の記述によれば、モンテチトーリオ宮殿の北側のオリンピア劇場付近にあった「アウグストゥスの平和の祭壇」と、カンプス・マルティウスにあった「アントニウス・ピウスの記念柱」の間とのことですから、モンテチトーリオ宮殿の北側辺りになります。
また、1970年代にはドイツのEdmund Bunchnerによってアウグストゥスが日時計を建てた場所の研究が進められました。これに関連するダラム大学のPeter Heslinの論文"Augustus, Domitian and the So-called Horologium Augusti"(2007)がACADEMIAのウェブサイト上に公開されています。この論文によると日時計が建てられた場所は、カンポ・マルツィオ通り(Via di Campo Marzio)とイン・ルチナ通り(Via in Lucina)の交差点近くの建物の辺りで、筆者がGoogle Mapで調べたところではCampo Marzio Luxury Suitesというホテルが入っている建物がこれに相当するようです。
アウグストゥスの日時計は8世紀(一説には10~11世紀頃?)までは残っていたようですが、その後倒れて埋もれてしまいました。
1512年に地中から発見されましたが、おそらく修復が困難であったために200年以上も放置されていました。
18世紀、時のローマ法王ピウス6世(在位 1775-1799年)によって破損部分が修復され、1792年にこの場所に再建されました。そのとき、オベリスクの頂上にピウス6世の紋章がついたブロンズの球形の装飾が取り付けられました。
ウエブ上で 「 Virtual Roma 」 を主宰する Andrea Pollett によりますと、頂上の球体には穴があいていて、その穴を通った太陽光が広場の舗装上にある目盛に達するようになっているといいます。再び日時計となることを目指したわけですが、彼によるとうまく機能していないということです。
オベリスクの南面は、最下部など一部が破損して修復されていますが、上部のヒエログリフは非常に美しく残っています。新王国時代のオベリスクの記述法とは少し異なっていますが、プサメテク2世のホルス名とカルトゥーシュで囲まれた即位名、誕生名が明瞭に読み取れます。左右の碑文の対称性にも十分な配慮がなされていて、完成された様式美を持っています。
これに対して、北側は碑文は全く無く、東面と西面はごく一部しか碑文は残っていません。つまりこのオベリスクは南側の面がかろうじて残っていただけで、2/3くらいは補修されたことが分かります。凹凸がある状態で残ったオベリスクに上手く組み合わさるように石を彫って修復するのは大変な労力を要したであろうことが推察されます。Wikipediaの"List of obelisks in Rome"によればオベリスクの高さは 21.79m、台座を含めると 33.97mですが、オベリスクの下側の破損が激しいので、元来は今よりも長かったものと思われます。
撮影メモ:
モンテチトーリオ宮殿はイタリア代議院の議事堂なので警備は厳しく、広場にはパトカーが数台常駐していましたし、警察官も10人前後いて物々しい雰囲気でした。2013年夏に訪れた時には座り込みを続けるデモ隊が居て、オベリスクの根元には横断幕が広げられていましたので、2014年に再訪した時に写真を撮りなおしました。団体観光のコースからは外れているため、さほど観光客は多くありません。
南面 |
東面 |
西面 |
北面 |
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2014年8月11日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます) |
共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org