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ドゥカーレ宮殿
ウルビーノの中心にあるドゥカーレ宮殿


ウルビーノのオベリスク

現在地:  ウルビーノ、アウレーリオ・サッフィ通り(ドゥカーレ宮殿横)
北緯
43°43′27.4″(43.724268) 東経12°38′12.9″(12.636922)
創建王:  ウアフイブラー王(第3中間期第26王朝、在位 紀元前6世紀)
高さ:  未詳
石材:  赤色花崗岩

場所について:
 ウルビーノは奈良と同じく 1998年に世界遺産に指定された街で、ルネサンス期の中世の町並みが残っています。町の中心となっているドゥカーレ宮殿は 1536年に完成した建物で、現在では国立マルケ州美術館となっています。またウルビーノはラファエロが生まれた町としても有名です。ラファエロは 1483年に誕生して少年期までこの町で過ごしましたが、ラファエロの生家は現存していて、小さな博物館になって公開されています。旧市街の北側にはラファエロの銅像も建っています(写真)。

ラファエロの銅像 ラファエロの銅像

 このオベリスクの所在地をリナッシメント(イタリア語でルネサンスの意味)広場とする本やウェブサイトを見受けます。確かに周囲の建物の「番地」はそうなのですが、リナッシメント広場自体はオベリスクの立っている場所から少し北側で、サン・ドメニコ教会の前の小さな広場です。オベリスクの立っている場所は広場ではなく道路の真ん中で、アウレーリオ・サッフィ通り(Via Aurelio Saffi)という名前の道です。

行き方:
 ウルビーノはローマの北方、約 200kmほど離れた山あいの小さな街ですが、1998年に世界遺産に指定されてからは広く知られるようになりました。
 鉄道の便は無く、一般的な行き方はアドリア海沿岸のペーザロまで鉄道で行き、ペーザロからバスでウルビーノに向かうことになります。ただ、ローマからペーザロまで直行で行く列車は1日に1便だけで、他はアンコーナなどでの1回乗換えとなり4時間以上かかります。また、ペーザロとウルビーノ間のバスは1時間に1、2本出ており、所要時間は 45~65分くらいです。
 なおローマからウルビーノに直接行ける長距離バスが、月~土曜は1日に2便、日曜日は1便出ています。直通のバスなので鉄道を利用するより早く行けます。
 ローマの長距離バスターミナルは、地下鉄B線またはイタリア国鉄のティブルティーナ駅の近くにあり、ウルビーノ行きのバスは Adriabus という会社が Bucci Bus と共同で運行しています。2016年8月の時点ではローマからは 06:30発と 16:00発の Urbino 行き(日曜日は17:00発の1便)があります。(私が行った 2013年8月には、ウェブサイトにはリミニ行きとなっていましたが、実際にはウルビーノまでの 07:30発の1便だけでした。)ローマからウルビーノまでの所要時間は4時間15分です。バスはドゥカーレ宮殿の西側の広場にあるバスターミナルに着きます。

ウルビーノのオベリスクの復元想像図 オベリスクの復元想像図(右)

 ドゥカーレ宮殿は丘の上に建っていますがバスターミナルから直接登る道はありません。かなり回り道になりますが、バスターミナルの広場の北側のゲートから市街に入ります。
 オベリスクはドゥカーレ宮殿の東側のアウレーリオ・サッフィ通りに建っていて、ウルビーノの旧市街のほぼ中心に位置しています。旧市街は狭いので地図さえあれば迷うことはないでしょう。

オベリスクについて:
 このオベリスクはローマの ミネルヴァ広場のオベリスク と対のもので、ナイルデルタのサイスに2本一組で建てられていたものです。第3中間期第26王朝のウアフイブラー王(アプリス王)が紀元前580年前後に建てたものです。
 1世紀末頃にサイスからローマに運ばれ、イシス神殿に建てられたものと考えられていますが、その後倒れました。
 17世紀にミネルヴァ広場の近くの地中(それはイシス神殿が建っていた場所)から3つに割れた状態で発見された後に、アルバーニ(Giovanni Francesco Albani)枢機卿の所有物となりました。1700年にアルバーニ枢機卿はローマ教皇クレメンス11世となり、クレメンス11世は 1737年に故郷のウルビーノに寄贈するため、このオベリスクローマからこちらに移されました。
 このオベリスクは四隅が削り取られてしまって8角錐になっているのが特徴です。おそらく出土した時の角の部分の損傷がひどく、修復が諦められて削られたのでしょう。碑文は南側の面と東側の面は残っていますが、ミネルヴァ広場のオベリスクの碑文がきちんと様式に則っているのに対して、こちらの碑文は部分しか残っていないような不自然な感じです。また、北側と西側の面は摩滅が激しく、碑文はかすかに線刻のような感じで残っているだけで判読できません。
 ところで、ミネルヴァ広場のオベリスクと対であることは、双方のオベリスクの東面の碑文を見比べてみると似たような部分があるため分かるのですが、これ以外にも気づいたことがあります。
 まずミネルヴァのオベリスクは4面共にホルス名から始まっているのですが、ウルビーノのオベリスクはホルス名の部分が見当りません。対のオベリスクでまったく碑文の構成が異なるということは考えにくいので、おそらくウルビーノのオベリスクは、元々あったホルス名の部分が欠損していて、上部を四角錐のピラミディオン状に後から加工したと見られることです。
 また、ウルビーノのオベリスクは独特な形状をしており、オベリスクの本体が下の方が分かれていて、途中にベルトのように四角い石材が入っています。この四角い石材も赤色花崗岩で、オベリスク本体と同じ石材であることは明らかですが、そうだとすると、この四角い石材は元々上下に分かれたオベリスクの間に入っていたものなのか、修復の際に、元は最下部の台座であった石材が途中にはさまれたものであるかのいずれかとなります。
 ところが、写真を良く見てみると、オベリスクは先端に行くほど細くなる傾斜がついていますが、この石材は上部が細くなっているわけではなく、上部と下部は同じ太さであることから、ミネルヴァのオベリスクの台座のように、元々は台座であった石材が修復の際に上下のオベリスクの断片の間に挿入されたのではないかと筆者は考えています。
 上記の考えから、試みに中間にある石材を台座にして、二つに分かれたオベリスク本体をつなぎ、さらに失われたホルス名の部分をミネルヴァのオベリスクの写真から補ってみた復元図が左側の写真です。元々はこのような形状のオベリスクではなかったかと筆者は考えています。

撮影メモ:
 ウルビーノのオベリスクは残念ながらかなり状態が悪く、碑文も東面以外はほとんど判読できません。しかも対であるミネルヴァのオベリスクの碑文と見比べてみると最上部が失われていて、途中から始まっていることが分かります。このためオベリスクを見るだけの目的でウルビーノを訪れると落胆するかもしれません。アドリア海の沿岸にも多くの見所がありますので、他の場所も回ってみるのが良いと思います。

urbino_south.jpg
南面

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東面

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西面

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北面

2013年8月12日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org