エジプトのオベリスク オベリスク全リストへ戻る

エジプト  エジプトにはオベリスクが立った形で残されている地域が6ヶ所あります。首都カイロおよびその近郊のヘリオポリス、カイロから南西に100kmほどの所にあるオアシス都市のファイユーム、古代エジプトで宗教の中心地であり続けたルクソール、さらに南のヌビア地方に属するアスワン、ナイルデルタのタニスの遺跡があるサン・エル・ハガル、地中海に面し古代から栄えていた港湾都市のアレキサンドリアです。
 おそらく古代にはこれらの場所以外にも多数の都市の神殿にオベリスクが建てられていたはずですが、1枚岩で単独に建っているオベリスクは石材として利用しやすいため、多くのオベリスクは後代になって分割されて建築資材として利用されてしまい、現在では大きな破片さえも残っていないものが多いのです。今では1本のオベリスクも残っていないナイルデルタのサイスや、現在は海底から引き上げられた断片が1本あるだけのアレキサンドリアなども古代エジプトの頃には多くのオベリスクが残っていました。

カイロおよびヘリオポリス

 古代エジプトではオベリスクは太陽神に捧げるために建てられました。カイロ近郊のヘリオポリスは太陽信仰の中心地で、紀元前2,000年の中王国時代の以前からヘリオポリスには大規模な太陽神殿があり、そこにはオベリスクが建てられていたようです。現存する大型のオベリスクの中で最も古いものがセンウセレト1世のオベリスクで、ヘリオポリスに現在も残っています。しかしヘリオポリスはカイロに近い町なので古くから開発が進み、今ではヘリオポリスの古代の遺跡はオベリスク以外には残っていません。
 カイロの国際空港もヘリオポリスにありますが、カイロ国際空港の第1ターミナルの前にラムセス2世のオベリスクが立っています。このオベリスクは元はタニスの遺跡に割れて倒れていたものをカイロに運んで1984年に修復したものです。
 カイロ市内のエジプト博物館の庭には多数のオベリスクの断片が保存されています。一切修復らしいことは行われておらず、単に置いてあるだけといった状態の展示方法です。また、博物館の内部にも2本のオベリスクが展示されていることが分りました。2018年5月にはギザのピラミッドの近くに大エジプト博物館が完成する予定で、完成後には10万点の展示品が現在の博物館から移されることになっています。
 エジプト博物館の西側、ナイル川を渡った中州のゲジーラ島には、ラムセス2世のオベリスクが立っています。1962年にタニスに倒れて残っていたものを運んできて修復したものです。
 この他に、結果的には近年に作られたレプリカと判明したものですが、カイロの農業博物館に小型のオベリスクが2本ペアで立っています。touregypt.netというウェブサイトに農業博物館の紹介があり、そこに小型のオベリスクの写真が掲載されていたのです。非常に気になって現地を訪れ写真を撮って調べた結果、複製品と判明しましたが、その経過をまとめておきました。(番外編:カイロ農業博物館のオベリスク

ルクソールおよびカルナック

 古代エジプトの中王国時代の第11王朝から新王国時代の第18王朝まではテーベが首都になっていました。テーベは現在のルクソール市の近郊に当ります。テーベは旧約聖書にはアメン神の町として記録されているように、第19王朝以降もアメン信仰の中心地として栄えました。テーベの郊外、現在のカルナックとルクソールには新王国時代にアメン神を祭る大神殿が建設されました。現在、カルナックのアメン大神殿には3本、ルクソール神殿には1本のオベリスクが立っています。古代エジプトの頃から建設された位置に倒れずに残っているのは、これらの4本とヘリオポリスのセンウセレト1世のオベリスクだけですが、4,000年間も倒れもせずに残っていることは本当に驚異的です。ただ、テーベの神殿からは多数のオベリスクが持ち出された記録が残っていますので、現在残っているのは一部にしか過ぎません。
 また、ルクソール美術館にはカルナックのアメン大神殿にあったラムセス3世の小型のオベリスクが屋内展示されています。1923年にアメン大神殿の第9塔門と第10等門の間の中庭で発見されたものです。下部が失われていて1m弱の高さしかありませんが、元々2m程度の小型のオベリスクであったものと推定されています。

アスワン

 アスワンは赤色花崗岩の産地として古王国時代から知られており、多くの石材がアスワンからナイル川を船で下って搬出されました。アスワンより上流のナイル川は急流になるため船で遡れるのはアスワンまでで、アスワンは古代エジプトの南の国境となっていました。ナイル川のさらに上流の地域はヌビアと呼ばれ、エジプトとは別の勢力圏になっていました。
 19世紀末にエジプトを保護領としていた英国によってアスワン・ダムの建設が行われ、1901年に完成しました。このダムの完成によってフィラエ島のイシス神殿は水没しました。さらに1960年にはソ連の援助によってアスワン・ハイ・ダムの建設が始まりました。ハイ・ダムが完成すると、アブシンベル神殿などの大規模な遺跡が水没するため、既に水没していたイシス神殿などと共に10ヶ所の遺跡がユネスコの援助によって移築されました。
 アスワンには1997年に完成したヌビア博物館があり、ヌビア地域関連の遺物が展示されていますが、その中にはエジプト博物館に保管されていたアブシンベル神殿のラムセス2世の対のオベリスクなどがあります。小さな博物館ですが全部で5本のオベリスクが展示されています。
 また、アスワンは巨大な「切りかけのオベリスク」が残っていることでも有名です。切り出す途中でヒビが入ってしまったため断念されて石切場に放置されたオベリスクですが、仮に切り出されて建設されれば世界最大のオベリスクになったはずです。(番外編:切りかけのオベリスク

ファイユーム

 ファイユームはカイロから南南西に100kmほど行ったところにある都市です。ファイユーム市の北東にはカルーン湖があるため肥沃なファイユーム盆地は古代から栄え、特にプトレマイオス朝の頃には多数のギリシャ人が入植したので多くの遺物が残っています。ただしカルーン湖はナイル川の支流を水源としてできている湖なので、正確な意味でのオアシスではありません。
 ファイユームの市街地の北東部にケスムという場所があり、大通りが交差するロータリーがあります。この中心に中王国時代のセンウセレト1世のオベリスクが修復されています。頂上部が四角錐ではないためからか、この建造物をオベリスクには含んでいない文献やウェブサイトも多いのですが、現地で調べた結果、正真正銘の古代オベリスクであることが確認できました。

タニス

 タニスはカイロの北東約140kmのナイルデルタにあった古代エジプトの都市で、第3中間期の第21王朝はタニスに都を置きました。現在はサン・エル・ハガルという小さな街に隣接した遺跡となっています。新王国時代にラムセス2世がつくったペル・ラムセスが近いため、ペル・ラムセスから搬出した石材が多数残っています。そのためここは長らくペル・ラムセスと考えられていましたが、1939年と1940年にプスセンネス1世やシェションク2世などの第3中間期の王朝のファラオの墓が発掘されたことによって、タニスであることが判明しました。タニスの遺跡の中心的な遺構は巨大なアメン神殿で、数多くのオベリスクの断片が残っています。エジプトで一ヶ所にこれだけ多数のオベリスクが残っている遺跡は他にはありません。

アレキサンドリア

 アレキサンドリアは地中海に面した港湾都市で、アレクサンドロス大王のエジプト遠征の際に紀元前332年に建設されました。アレクサンドロス大王の死去のあと、部下であったプトレマイオス1世がエジプトを支配してプトレマイオス朝を開き、アレキサンドリアがエジプトの首都となりました。プトレマイオス朝が倒れローマの支配下になった後、初代皇帝のアウグストゥスがカエサリウム神殿の正面の装飾用に、トトメス3世の2本のオベリスクをヘリオポリスからアレキサンドリアに運び込みましたが、19世紀にロンドンとニューヨークにこれらのオベリスクが運び出されて以降は、アレキサンドリアにはオベリスクは残っていませんでした。
1995年にCentre d'Etudes Alexandrinesによって海底からセティ1世のオベリスクの一部が引き上げられて、今ではアレキサンドリア駅の北側にあるローマ劇場跡に屋外展示されています。Centre d'Etudes Alexandrinesのウェブサイトに引き上げられたオベリスクの修復作業のことが記載されています。