アメン大神殿のオベリスク (3本) オベリスク全リストへ戻る

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アメン大神殿の概要(出典「ブルーガイド海外版29 エジプト」掲載図面)

現在地:  エジプト、カルナック
北緯
25°43′06.1″(25.718359) 東経32°39′30.0″(32.658331)

1. 創建王:  セティ2世(新王国第19王朝,在位,紀元前12世紀)
高さ:  3.3メートル
2. 創建王:  トトメス1世(新王国第18王朝,在位,紀元前16-15世紀)
高さ:  約19.5メートル(本体部分)
重さ:  143トン
3. 創建王:  ハトシェプスト女王(新王国第18王朝,在位,紀元前15世紀)
高さ:  約30メートル(台座を含む)
重さ:  323トン

場所について:
 カルナックの神殿は大小さまざまな神殿や祠などが集まった巨大な複合体です。その中心的な存在がアメン大神殿です。1979年に「古代都市テーベとその墓地遺跡」の史跡のひとつとして世界遺産に登録されています。カルナックの神殿複合体には他にもムゥトの神域やモンチュの神域があるのですが公開されていません。
 アメン大神殿は中王国時代第12王朝のセンウセレト1世の頃から建設が始まり、特に新王国時代の第18王朝と第19王朝の頃には増改築が繰り返されました。今は閉鎖されていますが、他にも3方向からの参道があり、特に今の参道とは逆方向の東側の入口にもかつてはオベリスクが建てられていました。
 右図はアメン大神殿の地図で、方角は下が西になります。
かつては多くのオベリスク:
 現在、アメン大神殿に完全な形で残っているオベリスクは3本しかありませんが、古代エジプトのころにはアメン大神殿には20本前後のオベリスクが立っていました。
 Google mapでは、現在のアメン神殿の遺構の地図のかわりに、古代の神殿の復元図が描かれているのです。実は右上の地図のマーカーは現存するトトメス1世のオベリスクの位置になっているのですが、地図を拡大していくと今は台座だけになっているもう片方のオベリスクも描かれているのが分かります。さらにハトシェプスト女王のオベリスクは倒れた分も含めて2本揃って立っています。また注意深く見てみるとトトメス1世の対のオベリスクの西側には、トトメス1世のオベリスクよりも大きな対のオベリスクがあります。また、地図の右側の、大神殿の東側の外壁の外には3本の大型のオベリスクが描かれています。さらに東側のカルナック神殿複合体の外壁の外側にも小さな1対のオベリスクが描かれています。
 カルナックの神殿複合体の入口には入場券売場のある大きな建物があり、その中にはアメン大神殿の大型の復元模型(写真:別ページのリンク)があります。Google mapの復元図と同じように神殿内に6本、神殿の東側に3本のオベリスクがあります。この他、UCLAの Digital Karnak というウェブサイトでは古代のアメン大神殿がCGによる復元図と共に分かりやすく紹介されていますが、このサイトでもGoogle mapと同様に神殿内に6本、神殿の東側に5本のオベリスクが描かれています。さらに南側の第7塔門にも1対のオベリスクが記載されています。
アメン大神殿 写真1:アメン大神殿の入り口
右端にセティ2世のオベリスクが見える


アメン大神殿を歩く:
 アメン大神殿の入場ゲートを入ると、すぐ右側にセティ2世のオベリスク(1)があります。太さの割りに高さが低いので、ずんぐりした形のオベリスクです。しかし、目の前には第1塔門がそびえたち、スフィンクス参道が続いているので、大半の観光客はそれらの光景に目を奪われて、セティ2世のオベリスクにはほとんど興味を示さずに奥に進んでいきます。
 セティ2世のオベリスクはスフィンクス参道の入口に左右ペアで建てられましたが、向かって左側のオベリスクは失われており、左側のオベリスクは台座だけが残っています。このオベリスクが建っている場所はかつてはナイル川から引かれた運河の船着場でした。
 第1塔門はアメン大神殿の西側の門です。末期王朝のネクタネボ1世の頃に建てられたものと考えられていますが、未完成で左右の高さも異なっています。また、碑文も無ければレリーフも彫られていません。
 第1中庭にはセティ2世の神殿があり、南側にはラムセス3世の神殿があります。第2塔門の手前には右側にラムセス2世の巨像があります。左側にもラムセス2世の像があって向き合っていたはずなのですが、左側の像はなくなっています。かわりに左側には腕を組んだパネジェムの巨像があります。パネジェムの巨像は本来はラムセス2世の像でしたが、第21王朝のパネジェム1世が名前を書き換えてしまったのです。この像は第2塔門の下に埋まっていたものを修復して建て直したものです。
 このパネジェムの巨像の裏にはトトメス3世のオベリスクの断片が置かれています。元々は現存するトトメス1世のオベリスクの東側に立っていたものですが、今はその場所には台座しか残っていません。
 ホルエムヘブが建てた第2塔門を入るとセティ1世が建てた大列柱室があります。名前の通りの巨大で太い134本の石柱が林立しています。柱の頭部は開花したパピルスの形をしており、開花式パピルス柱と言います。レリーフがくっきりと残っているほか、わずかに塗料が残っているものもあり、かつてはレリーフを含めて華やかに彩られていたことが伺われます。この大列柱室は本当にスケールが大きくて圧倒されます。

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写真2:トトメス1世(右)と
ハトシェプスト女王のオベリスク


 トトメス1世のオベリスク(2)は、第1塔門に入る前から遠くに小さく見えてはいるのですが、大列柱室を奥に進むにつれて、その存在感を増してきます。アメンホテプ3世が築いた第3塔門の手前あたりからは、奥のハトシェプスト女王のオベリスクも上部が見えてくるので、2本のオベリスクがならんで視野に入ります。トトメス1世のオベリスクは第3塔門と第4塔門の間に右側だけが残っていて、左側のオベリスクは壊れて台座と断片しか残っていません。
 ハトシェプスト女王のオベリスク(3)は、トトメス1世が作った第4塔門の先の左側にあります。オベリスクの周囲はかつては壁で囲まれていたことがわかります。この壁はトトメス3世の晩年にトトメス3世の祝祭殿の建設などと併せてアメン大神殿の改築が行われた時に築かれたものです。ハトシェプスト女王のオベリスクは右側にも立てられ、やはり壁で囲まれましたが、今では倒れていて台座とオベリスクの本体の最下部が残っています。またピラミディオンを含む上部の断片が聖なる池の近くに置かれています。
 続く第5塔門もトトメス1世によって作られました。したがってハトシェプストは父のトトメス1世が築いた第4塔門と第5塔門の間に、自分のオベリスクを建てたことになります。第5塔門の東側には小さな列柱室がありトトメス3世が作った第6塔門があります。第6塔門を過ぎると狭い中庭を経て大神殿の中心である至聖所に至ります。
 至聖所の裏側(東側)は中王国時代の神殿の遺構の広場があり、その東側にはトトメス3世の祝祭殿があります。この祝祭殿の東側がアメン大神殿を囲む外壁の東側の入口になっています。今では失われていますが東側の入口に大きなオベリスクが3本かつては建てられていました。そのうちの2本はハトシェプスト女王のオベリスクで現在は壊れていますが、1本のピラミディオン部はエジプト博物館の入り口の脇に展示されており、もう一方のピラミディオン部の破片はトトメス3世の祝祭殿の東側に残っています。
 他の1本はトトメス3世が作り始め、トトメス4世が完成させたもので、現在はローマのラテラン広場に立っている、古代オベリスクの中では最大のものです。このオベリスクはローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世(在位 306-337年)がコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に移す目的でアメン大神殿から運び出されたものです。
 トトメス3世の祝祭殿の壁面には、トトメス3世が立てたオベリスクのうちの2本のオベリスクのレリーフが残っています。ここに描かれているオベリスクは、第7塔門の南側に2本ペアで立てられていたものです。現在は、そのうちの1本はイスタンブールに運ばれており、他の1本は台座以外は壊れて断片だけが残っています。
 また、ルクソール美術館に展示されているラムセス3世の小型のオベリスクもカルナックで発見されたものです。美術館の説明には明記されていませんが、第8塔門のさらに南側にある第9塔門と第10塔門の間の中庭の西側で1923年に発見されたものです。(「カイロ・エジプト博物館ルクソール美術館への招待」松本 弥著による)ただし、第8塔門より南側の地域は整備工事が続けられており、観光客は立ち入ることができません。
 第5塔門からトトメス3世の祝祭殿までのエリアは、セティ1世とラムセス2世が作った外壁によって囲まれていますが、南側の外壁にはラムセス2世が2本のオベリスクを奉納したことを示すレリーフが残っています。このオベリスクはトトメス3世の祝祭殿の東側の外壁の外側に立てられました。台座とオベリスクの破片が発見されていますが、閉鎖されている東側の門の外側になり、未公開のエリアになっているため筆者は立ち入ることができませんでした。
 なお、カルナックの神殿複合体にはアメン大神殿以外に、ムトの神域、モンチュの神域の遺構がありますが、これらの地域も公開されていません。モンチュの神域には、北門と神殿の遺構との間にアメンホテプ3世が建てた2本の大型のオベリスクの台座が残っていて、Google Mapの衛星写真でも存在が確認できますが、オベリスクの本体は破片しか残っていません。

行き方:
 カルナックのアメン大神殿はルクソール駅の北東約3kmのところにあります。大規模な神殿なので、団体旅行ですと主要な部分だけを見てさっさと回ってしまうので、オベリスクやオベリスク関連のレリーフなどを含めて見るような余裕はありません。このため、個人でアメン大神殿を訪れる必要があります。
 ルクソール市内のホテルの多くはルクソール駅の近くにありますから、アメン大神殿に歩いていくのはかなり厳しいでしょう。ルクソール市内にはバスなどの公共交通はありませんので、個人旅行者はタクシーか観光客用の馬車で神殿に向かうことになります。
 2008年にルクソールを訪れた時には、まだ革命の前でしたので、多くの観光客で賑わっていて、レンタル自転車屋もありましたから、筆者は自転車でアメン大神殿まで行ったことがあります。しかし、2014年に再訪した時には観光客はごくわずかで、レンタル自転車も見当たりませんでした。
 観光客がほとんど居ないにもかかわらず、観光客目当ての馬車やタクシーは以前と同様に客待ちをしていますから、ホテルを一歩出た途端に客引きに声をかけられると思います。馬車だとアメン大神殿で帰りを待たせても相場の料金は20EGPくらいでしょう。20EGPは日本円では約300円ですが、エジプトの物価からすると法外に高い外国人料金です。なお、炎天下を歩いて行くよりはマシでしょうが、馬車は涼しくもないですし、馬の匂いがするので快適な乗り物とはいえません。

オベリスクについて:
 アメン大神殿には約20本のオベリスクが建てられたことが文献や考古学的調査によって知られていますが、多くは壊れてしまっていて、3本は他の場所に移設されています。このため現在も立った形でアメン大神殿内に残っているオベリスクは3本ですが、ここでは倒れているオベリスクの断片や、オベリスクのレリーフなども含めて紹介します。


セティ2世のオベリスクの台座
写真3:
セティ2世のオベリスクの台座

1.  ●セティ2世のオベリスク
 アメン大神殿の入場ゲートを入ってすぐの所に、このオベリスクは建っています。かつてはナイル川から引かれた運河の船着場であった所です。
 新王国時代第19王朝のセティ2世(在位 紀元前1199~1193)が建てたオベリスクで、アメン大神殿の正面に向かって右側(南側)の1本だけが立っていて、もう一方は台座の岩石しか残っていません。実測したところオベリスクの高さは3.3mでした。柱身は太く各面共にセティ2世のホルス名や即位名を含む4行の碑文が彫られています。赤色砂岩でつくられているため保存状態はあまり良くなく、欠損部分を修復した形跡が目立ちます。
 4面のうちでは南面が比較的に保存状態が良いのですが、ロープが張られて立ち入りができないようになっているので、係員の許可を取って南側に行かないと写真が撮影できません。
 なお不思議なことに、このオベリスクは多くの書籍やウェブサイトで無視されています。アメン大神殿の入場ホールにある大型の復元模型ではきちんと復元されていましたが、Google mapやUCLAのサイトには記載されていません。特にUCLAのサイトでは、多くの失われたオベリスクも紹介されているのに、現存するこのオベリスクは無視されています。アメン大神殿の西側の入口はスフィンクスがならぶ参道から描かれており、セティ2世のオベリスクは故意に抹消されたかのように省かれているのです。

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写真4:西面

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写真5:南面

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写真6:東面

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写真7:北面
西面と南面は2014年8月8日 北面と東面は2017年5月5日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

セティ2世のオベリスクの台座
写真8:パネジェムの石像。足の左側にトトメス3世のオベリスクの断片が見える


トトメス3世のオベリスクの台座
写真9:トトメス3世のオベリスクの台座(黄色の矢印の下)

●トトメス3世のオベリスク(断片)
 第18王朝のトトメス3世(在位 紀元前1504~1450)は、未完成の1本を含めると7本のオベリスクをアメン大神殿に寄進しました。このうちの1対は、現在残っているトトメス1世のオベリスクの西側に立っていました。現在でも台座が元の場所に残っていますが、オベリスクの本体の断片が第1中庭のパネジェムの石像の裏側に置かれています。
 ピラミディオン部を含む上端の部分と、2個の中央部の大きな断片が置いてありますが、周囲により小さな断片が多数散在しているわけでもなく、元々建てられて場所からはだいぶ離れていますので、移動されてここに展示されているものと見られます。上端の部分のピラミディオン部の底辺の幅を実測したところ約1.7mでしたが、これからすると、もともとのオベリスク本体の全長は24~30m程度はあったのではないかと筆者は推定しています。現存する最大のラテラン・オベリスクの本体の高さは32mですので、これよりは低いとみられますが、アメン大神殿に残っているトトメス1世のオベリスク(24m)よりは高く、ハトシェプスト女王のオベリスク(30m)に迫る大きさであったものと思われます。
 オベリスクには2行の碑文が彫られていますが、端正な字体で深彫りされています。上端の方にはトトメス3世の即位名と誕生名が見えます。
 もともとは2本が対で立てられていたのですが、アメンヘテプ3世(在位 紀元前1386~1349年)の治世下の時に第3塔門が建造された時に取り壊されてしまった可能性があります。UCLAのDigital Karnak には第3塔門になかば埋まった形でトトメス3世のオベリスクが描かれています。
 第3塔門と第4塔門の間の部分を第4塔門(東側)から撮影したのが右側の写真9で、トトメス1世のオベリスクの奥(西側)に2つの台座が写っています(黄色の矢印の下)。ところがアメン大神殿の第3塔門の説明パネルでは、これらの台座のうちの片方、写真9の右側の台座の、上に石材の断片が積み重ねられている台座は、トトメス1世のオベリスクの台座であると記されています。たしかにトトメス1世のオベリスクの倒れた方のオベリスクの台座は、本来あるべき場所、写真9の右下のハッチングされている辺りから取り払われていますので、ここに移されたのかもしれません。
 下に示した現存するトトメス1世のオベリスクを南側から撮影した写真で、トトメス1世のオベリスクの左側(西側)に写っている台座がトトメス3世のオベリスクの台座であるものと思われます。トトメス1世のオベリスクの台座の岩石より一回り大きく、トトメス3世のオベリスクが、現存するトトメス1世のオベリスクよりも大きな物であったことが偲ばれます。
 トトメス3世のオベリスクの他の1対は第7塔門に建てられたことが分っていますが(後述)、他の1対は台座も破片も見つかっていないため、どこに建てられたのかは分っていません。

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写真10:トトメス3世のオベリスクの断片

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写真11:トトメス3世のオベリスクの上側
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写真12:トトメス3世のオベリスクの台座(左側)
2016年4月30日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)


トトメス1世の倒壊したオベリスク

写真13:トトメス1世の倒れたオベリスクの断片

2.  ●トトメス1世のオベリスク
 第18王朝のトトメス1世(在位 紀元前1524~1518)のオベリスクで、第3塔門と第4塔門の間に右側(南側)だけが残っています。オベリスクの東面と西面は狭いスペースしかなく、根元に障害物があるため真正面は見にくいのですが、南面と北面は全体がよく見えます。特に南面は保存状態が良好で、碑文が鮮明に残っています。
 トトメス1世がこのオベリスクを建てた時には、碑文は中央の1行だけだったのですが、第20王朝のラムセス4世(在位 紀元前1151~1145)の時代に左右の碑文が付け加えられて、現在は3行の碑文になっています。
 中央の碑文のヒエログリフは惚れ惚れするほど美しい書体で、あたかも明朝体の活字のように完成された端正な様式美を持っています。書体の美しさではヘリオポリスのセンウセレト1世のオベリスクと1、2を争うものではないかと筆者は考えています。
 なお、岡本さんから、このオベリスクは傾いているらしいと教えていただきました。たしかに建物とか、北面の写真に写っているクレーンの鉄塔などを手がかりにして写真の角度を補正すると、約1度ほど西側に傾いていることがわかりました。東面の写真16ではオベリスクが太く見えますが、下部の障害物を避けるために通路側から少し斜めに撮影したためです。
 このオベリスクの高さは、資料によってさまざまな数値が記載されています。 Encyclopaedia Britannica, "Obelisk"の項目には台座を含む高さは約24メートルと書かれていて、Wallis Budgeの"Cleopatra's Needles and Other Egyptian Obelisks"(1926)には約90フィート(約27.4メートル)となっています。Labib Habachiの"The Obelisks of Egypt"やRichard H. Wilkinsonの"The Complete Temples of Ancient Egypt"では、オベリスクのみの高さが19.5メートルとなっているのです。古代エジプトの遺跡にの中に現存する数少ないオベリスクであるにもかかわらず、数値がバラバラなのは非常に気になっていました。このため、2017年に現地を訪れた際には、台座の岩石の高さを巻尺で実測し、つぎにできるだけ遠方から写真を撮って、台座との比率から全体の高さを計算してみました。結果的には台座の高さは1.45mで、オベリスク本体部分の高さは19.5mであることが分かりました。
 トトメス1世のオベリスクは現在は右側だけが残っていますが、倒壊した左側のオベリスクの断片が現存するトトメス1世のオベリスクの下に置かれています。南側から撮影した写真15の台座の左側に見える円柱状の岩がそれで、長さは約4mあります。現存するオベリスクと同一の表記法によるトトメス1世の誕生名が残っています。
 なお、トトメス1世のオベリスクは第4塔門の手前に2本ペアで建てられたのですが、倒れてしまった方のオベリスクの台座は元の位置から取り払われていて、団体旅行客がオベリスクの下でガイドの説明を受けるのには格好のスペースとなっています。

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写真14:西面

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写真15:南面

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写真16:東面

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写真17:北面
2014年8月8日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

3.  ●ハトシェプスト女王のオベリスク 元々は第18王朝のトトメス2世が作り始めたオベリスクなのですが、トトメス2世の生存中には完成せず、妻のハトシェプストが息子のトトメス3世の王権を実質的に奪って即位した後(在位 紀元前1498~1483)に、アメン神殿に運んで建てたものです。第4塔門と第5塔門の間に左側だけが残っています。このオベリスクは中央に1行の碑文があり、東面の下の方にはトトメス3世の即位名も彫られています。各面の中央の行の左右にはハトシェプスト女王とトトメス3世がアメン神に貢物を捧げる図が描かれています。オベリスクの構図としては独特なものです。
 今ではかなり崩されていますが、オベリスクの周囲にはトトメス3世の治世下の頃に築かれた壁が残っています。この壁のため、西面と東面はオベリスクの真下には行けず、南西あるいは南東からの写真しか撮影できませんでした。このオベリスクは長らく壁によって途中までが隠されていましたので、露出していた頂上部と壁で覆われていた中央部以下では風化の度合いが異なっていて、特に北面はオベリスクの色が途中で変わっているのが明瞭に分かります。高さは台座を含めると約30メートル[出典: Encyclopaedia Britannica, “Obelisk”の項目、Labib Habachi: The Obelisks of Egypt]で、アメン大神殿に現存するオベリスクの中では最大のものです。
 なお、高さについては 30.4説[出典: 不詳]、97フィート(約29.1メートル)超説[出典: Wallis Budge: Cleopatra's Needles]もあります。重さについては 323トン[出典: Labib Habachi: The Obelisks of Egypt]とされます。
 壁で囲まれただけではなく、北面のハトシェプスト女王の即位名は石が削られて消されています。しかし、かすかに痕跡が残っているので消された名前がハトシェプストであることが分かります。ただし、北面も最上部のハトシェプスト女王のホルス名は消されずに残っていますし、他の面の女王名は消されていません。
 トトメス3世は幼い時に義母のハトシェプストによって実質的な王権を奪われ、ハトシェプストは王として即位します。このためトトメス3世はハトシェプストに対して怨念を抱き、ハトシェプストの死後、王権に返り咲いてからハトシェプストの記録の抹消に専念したというのが通説になっていました。怨念説は「古代エジプトの謎」(酒井傳六著)や「ファラオ歴代史」(Peter A. Clayton)など多くの本に記述されています。このためオベリスクの周囲に築かれた壁もトトメス3世のハトシェプストに対する怨念・復讐が原因とされてきました。
 当サイトも通説にしたがっていたのですが、ある読者の方から怨念説への疑問が指摘されました。そこで再度、色々な書物などを調べ直してみたところ、近年の学説では異なった記述が行われていました。
 大英博物館の「古代エジプト史」では、「ハトシェプストとトトメス3世がたがいにどのような個人的感情を抱いていたかを示す証拠は何一つないが、一連の抹消行為は、個人的恨みではなく、記録を正し、女性のホルス、つまり女性の王という異例事態を除こうとしたものだと考えられる。」と怨念説に否定的な記述があります。女王というのは伝統を重んじる古代エジプトでは甚だしく異端であり、ハトシェプストも公の場所では男装していたとも言われていますので、ハトシェプストの死後にその異常な存在を抹消することが行われたのでしょう。
 UCLAのDigital Karnakの記述では、ハトシェプストが在位中にアメン大神殿の改築を行って、現在ハトシェプストのオベリスクが残っている場所に広間(Wadjet Hall)を作ったことに続いて、トトメス3世がこの広間を改装してオベリスクの周囲に壁を作り、屋根を作って部屋状にしたことが記述されています。ただし、「ハトシェプストの名前が消されたのは壁が築かれた後で、壁の構築がハトシェプストの否定の始まりを意味するものではない」といった趣旨の説明があります。確かにハトシェプストの即位名が消されているのは壁よりも上側で、南面や北面の下の方に彫られているハトシェプストの誕生名は削られていませんので、名前が抹消されたのは壁が築かれた後でしょう。

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写真18:南面

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写真19:南西面

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写真20:北面

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写真21:東面
南西面:2014年8月8日 北面:2017年5月5日 その他の面:2016年5月1日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)


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写真22:倒壊したオベリスク(南面)


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写真23:断片の東面

●ハトシェプスト女王の倒れたオベリスク 上記の現存するハトシェプスト女王のオベリスクとペアで作られた物です。現存するオベリスクの南側に台座と最下部の断片が残っており、上側の断片はアメン大神殿の外側の聖なる池の近くに置かれています。
 残っているオベリスクは台座を含めると高さが30mもありますが、倒れた方のオベリスクは上側の9.4mほどと、最下部の2mほどの断片しか残っていません。わずかに全体の3割ほどしか残っていないことになりますが、ラビブ・ハバシュの「エジプトのオベリスク」には「その破片の大部分は残っている」と書かれています。2014年に撮影した写真(右の写真22と23)では、現存する断片以外にはオベリスクを思わせる大きな断片は無いので、細かく割れてしまったのかもしれません。ラビブ・ハバシュはボストン、リバプール、グラスゴー、シドニーにも断片があると記述していますが、米国のボストンのMuseum of Fine Artsとシドニー大学付属のNicholson Museumにあることは筆者も確認できました。
 横倒しになって置かれているオベリスクは、正面は容易に撮影できますが、上側はパネルで覆われており、下から撮影するのは難しく撮影を断念しました。また、背面は後ろに建っている壁との間隔が狭いので、斜めに写真を撮影しています。
 この倒れたオベリスクの背面を撮った写真は少ないのですが、背面の写真を詳細に見てみると中央部のハトシェプスト女王のホルス名の下側から王名が削り取られているのが分かります。ただ、女王のホルス名自体は残されており、なぜこのような削り方をされたのかは分かりません。
 また、オベリスクのピラミディオン部を注意してみると、アメン神の前にひざまずいて祝福を受けるハトシェプスト女王の像とアメン神の名前は、一度削り取られたあとに修復されていることが分ります。もう一方の立っているオベリスクのピラミディオン部にもハトシェプスト像がありますが、同じように後代に修復されたものと思われます。
 台座と、台座の上に残っている断片を、南側から撮影した写真を見てみますと、残っている断片の碑文は台座の中央から右側にずれています。つまりこの断片は台座の中央部には立っていないことになります。倒壊時に、台座の中央からずれた状態で残っていることは考えにくいので、おそらく地上に倒れていた最下部の断片を台座の岩の上に載せたときに、きちんと中心部を合わせなかったのではないかと思われます。このため、オベリスクが亀裂によって崩壊したのか、横倒しになったときにバラバラに壊れたのかは、今の状態からだけでは断定できません。ただし、アメン大神殿には倒れていないオベリスクも残っていますし、大列柱も倒れていませんので、倒壊の原因は地震などではなく、オベリスクの岩石に亀裂が拡がって、自らの重量に耐えかねる形で崩壊したのではないかと考えています。また、オベリスクの最下部を東側から撮った写真を見ますと、最上部に3本のオベリスクが描かれていますが、これは現存するハトシェプスト女王のオベリスクの東面の最下部の碑文と同一文章です。この3本のオベリスクの記号が、アスワンの「切りかけのオベリスク」がハトシェプスト女王のオベリスクであったのではないかとの憶測の根拠になっています。詳細は「切りかけのオベリスク」のページを参照願います。

ハトシェプスト女王の倒れたオベリスク1
写真24:正面

ハトシェプスト女王の倒れたオベリスク2
写真25:背面(先端側から撮影)

ハトシェプスト女王の倒れたオベリスク3
写真26:背面(下側から撮影)
2014年8月8日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)


オベリスクのレリーフ
写真27:トトメス3世祝祭殿のレリーフ

●トトメス3世の倒れたオベリスク 第7塔門の南側に建てられたトトメス3世の2本のオベリスクは、アメン大神殿のトトメス3世の祝祭殿にそのレリーフが残されています。しかし、第7塔門の南側に現在も立って残っているオベリスクはありません。第7塔門を南側から見た写真が下の左側の写真29ですが、右側は台座の上にトトメス3世のオベリスクの最下部の断片が載っていますが、左側は台座の岩石ごと取り去られています。
 無くなっている左側のオベリスクは、現在はイスタンブールに立っています。4世紀頃にローマ帝国の皇帝の命令によって持ち出されたものと思われますが、詳しい年代や命じた皇帝の名前は明らかではありません。イスタンブールのオベリスクの碑文とトトメス3世祝祭殿のレリーフを比較すると、レリーフの右側のオベリスクが一致します。現存のオベリスクは高さは 19.6mですが、碑文の比較によって下側約1/3が失われていることが分ります。このためアメン大神殿に立っていた頃の高さは 30メートル程度と推定されており、最大級のオベリスクだったことになります。

碑文の文字の方向
図28:通常の碑文の文字の方向

 右側の倒壊したオベリスクの断片の一部は、第7塔門と第8塔門の間の中庭に横たわって置かれています。
 写真30の断片にはオベリスクの中央の碑文の左側が残っています。断片の上面には凹んだ跡が並んでいますが、これはオベリスクの断片を分割した痕跡で、石切り場にはしばしば同じような痕跡を持った岩石が残ってます。倒壊した断片をさらに分割して他の建造物の石材に転用した名残りです。また、写真31の断片はオベリスクの最も下側の断片ではないかと思われます。いずれも碑文は深彫りされていて端正な書体です。ただ、残念ながらイスタンブールのオベリスクやレリーフの碑文と一致する文章は確認できませんでした。
 さて、レリーフの碑文を詳しく見ると、このペアのオベリスクは両方共に碑文が右向きであることに気付きます。通常、オベリスクは門の左右に設置され、図28のように門の左側のオベリスクの碑文は右向き、右側のオベリスクの碑文は左向きと、それぞれ門の通路側を向いた対称的な配置になっていますので、このトトメス3世のオベリスクの碑文の向きは非常に特異な例なのです。
 その理由は第7塔門と至聖所との位置関係に起因しているものと考えられます。元々、アメン大神殿は至聖所から西方向に伸びる長方形に作られました。その後、東西方向に増築が重ねられましたが、トトメス3世以降の王によって、南側のムト神殿の方向に第7~第10塔門の増築が行われ、アメン大神殿はTの字型になりました。トトメス3世が第7塔門を建造した時点では、既に至聖所は存在しており、その方向は第7塔門よりも右側(北西側)に位置していますので、右側のオベリスクの碑文も至聖所の方向を向く原則から、右向きの碑文が彫られたものと思われます。

南側から見た第7塔門
写真29:南側から見た第7塔門

トトメス3世のオベリスクの断片1
写真30:トトメス3世のオベリスクの断片

トトメス3世のオベリスクの断片2
写真31:トトメス3世のオベリスクの断片
2016年4月30日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●ハトシェプスト女王のオベリスクの断片 ハトシェプスト女王は今でも立っている第4塔門と第5塔門の間のオベリスク以外に、アメン大神殿の東側にも2本のオベリスクを建てました。しかし、ハトシェプスト女王の死後にトトメス3世は自らの祝祭殿を建設し、ラビブ・ハバシュの「エジプトのオベリスク」によれば、ハトシェプスト女王のオベリスクはトトメス3世祝祭殿の壁に組み込まれてしまいました。Google Mapの復元図では、ハトシェプストのオベリスクは祝祭殿の外壁のすぐ外側に立っていますが、UCLA の Digital Karnak では外壁に半ば組み込まれた状態の想像図が描かれています。
 2016年4月末に現地を訪れてみましたが、トトメス3世の祝祭殿は外壁は比較的良好な状態で残ってはいるのですが、ハトシェプスト女王のオベリスクが立っていたと思われる祝祭殿の東側の入口付近はひどく壊れている上に、後世に改築されたのか、建物の対称性も失われていて、オベリスクの台座も見当たりませんでした(写真32)。しかしながら、オベリスクの断片と思われる石材はトトメス3世の祝祭殿の東側の入口の外側にまとめて置かれていました。
 この場所にハトシェプスト女王のオベリスクは2本立っていましたが、そのうちの1本のオベリスクの先端のピラミディオン部分は、ほぼ完全な状態で残っており、現在はカイロのエジプト博物館に運ばれて、エジプト博物館の正面入り口の左側に置かれています。
 この場所に残っている断片は、ピラミディオン部分も多数の破片になってしまっていますが、女王から捧げ物を受取るアメン神のレリーフがきれいに残っています。ただし、エジプト博物館に展示されているピラミディオン部分と同じように、これらの断片でもアメン神の祝福を受けるハトシェプスト女王の姿は削り取られています。第5塔門の横に残るオベリスクのピラミディオンのハトシェプスト像は、一度削り取られた後に後代になって修復されていますが、こちらは修復されていません。おそらくハトシェプスト像の修復が行われた頃には、こちらのオベリスクは既に倒壊してしまっていたのではないかと思います。
 エジプト博物館にあるピラミディオン部は底辺の長さが約1.65mあります。これから類推すると元のオベリスクの高さは25~28m程度と思われ、現存するハトシェプスト女王のオベリスクよりも若干低かったのではないかと思われますが、最大級のオベリスクであったことは確かです。

南側から見た第7塔門
写真32:東側から見た祝祭殿

ピラミディオンの断片1
写真33:ピラミディオンの断片

ピラミディオンの断片2
写真34:ピラミディオンの断片

ピラミディオンの断片3
写真35:ピラミディオンの断片
2016年4月30日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)


オベリスクのレリーフ
写真36:トトメス3世祝祭殿から見た東門


lateran_south.jpg
写真37:再建されたオベリスク

●トトメス4世のオベリスクの跡地 トトメス3世の祝祭殿の東側のハトシェプスト女王のオベリスクのさらに東側にはトトメス4世のオベリスクが建てられました。2本ペアではなく、1本だけ建設されたものです。
 このオベリスクはトトメス3世の治世(紀元前1460年頃)に作られ始めましたが、おそらく王の死によって工事が中断され、アメンホテプ2世の治世の頃の35年間は未完成のまま放置されていました。アメンホテプ2世の死後、トトメス3世の孫のトトメス4世のときにオベリスクが完成し、カルナックのアメン大神殿に建てられたことが碑文の内容で分かっています。
 ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世(在位 306-337年)が、このオベリスクをアメン大神殿からコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に運ぶことを命じ、コンスタンティヌス1世の在位中にはアレキサンドリアまで運ぶことに成功しました。この作業中に台座と土台の大部分が壊れてしまったとのことです。その後、移設の計画は変更となり、コンスタンティウス2世(在位 337-361年)がローマに運ぶことを命じ、357年、ローマのチルコマッシモに立てられました。その後にオベリスクは倒壊しましたが、16世紀になって、ローマ法王シクストゥス5世の指示で探索が行われ、1587年に3つに割れたオベリスクが発見されました。1588年8月3日にサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ広場に再建されて現在に至っています。現在立っている場所にちなんで「ラテラン・オベリスク」と呼ばれています。このオベリスクは高さが 32.18mで、現存する古代オベリスクの中では世界最大のものです。
 このオベリスクが元々立っていたと推定されているトトメス3世の祝祭殿とアメン大神殿の東門の間の場所を訪れてみました。おそらく、写真36を撮影していた辺りがその場所に該当するものと思われますが、通路のようになっていて何の痕跡も見当たりませんでした。台座の岩石も移設する際に壊れてしまったということなので、そのためかも分りません。



オベリスクのレリーフ
写真38:ラムセス2世の外壁のレリーフ

●ラムセス2世のオベリスクの跡地 ラムセス2世もアメン大神殿に2本のオベリスクを奉納したことが知られています。
 アメン大神殿の第4塔門からトトメス3世の祝祭殿に至る外側にはラムセス2世による外壁が作られていますが、南面にはさまざまな神々に貢ぎ物を捧げるラムセス2世の姿がレリーフで描かれています。そのうちの一つにラムセス2世が2本のオベリスクを男性の神に捧げる図(写真38)があります。壁が壊れているのでオベリスクが捧げられている神は明確ではありませんが、頭上に太陽円盤らしいものがあるので、人間の顔で彫られてはいますが太陽神ラーではないかと考えています。

外壁の壊れている場所
図39:外壁の壊れている場所

 UCLA の Digital Karnak には、ラムセス2世のオベリスクはアメン大神殿の東門の外側に建てられたと記述されています。Google Mapの衛星写真を見ると、アメン大神殿の周囲には道路があり、アメン大神殿の外壁との間には空き地が広がっています。衛星写真ではこれ以上のことは分らなかったので、実際に現地を訪れてみると、道路にはフェンスがあって、アメン大神殿との間のエリアには立ち入れないことが分りましたが、丹念に回ってみると道路の壁が一部壊されていて、このエリアに入ることが可能な場所がありました(写真39)。奥の方にはアメン大神殿の東門が見えていて、距離はおよそ150mほどです。
 中に入ってみると、実際にはまったく無人というわけでもなく、土木工事の機械などが放置されてあり、住み込みの管理人らしき人物も居ました。挨拶すると追い出されそうになりましたが、少しは英語が通じたので懸命に説明し、何とか東門の周囲の写真を撮らせてもらいました。
 前日にアメン大神殿の東門の内側から外を見ていましたので、東門の近くにラムセス2世の名前が彫られた岩がある他は、雑草が生い茂っているだけで何も無さそうなことはあらかじめ推測できていました。
 実際に東門の外側に行ってみると、写真40のように東門の両脇に割れた大きな岩がありました。写真40と写真41がそれですが、それぞれ横書きでラムセス2世の即位名が彫られていることが確認できました。割れているので、台座の岩と断定することはできませんが、この2つの岩石以外には東門の遺構と見られる岩があるだけで、辺りを見回しても他に大きな石材はありませんでした。また、オベリスクの断片らしきものはまったく見つけることができませんでした。

外側から見たアメン神殿の東門
写真40:アメン大神殿の外側(東側)から見た東門

ラムセス2世のオベリスクの台座(?)(南側)
写真41:ラムセス2世のオベリスクの台座(?)(南側)

ラムセス2世のオベリスクの台座(?)(北側)
写真42:ラムセス2世のオベリスクの台座(?)(北側)
2016年5月1日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

●ラムセス3世のオベリスク 1923年にアメン大神殿の第9塔門と第10塔門の間の中庭の西側で発見された小型のオベリスクで、現在はルクソール美術館に室内展示されています。ラムセス3世(在位 紀元前1184~1153)のもので、高さはわずか95.5cmしかありません。下部が失われていますので、元は今よりも高かったでしょうが、太さからみて3mには満たなかったのではないかと思われます。ラムセス3世は2本ペアになったオベリスクをアメン大神殿に奉納したものと考えられていますが、もう片方は失われています。ラムセス3世のオベリスクでは、これが唯一残っているものです。詳細はラムセス3世のオベリスクのページをご覧ください。
 大きさから見て塔門の両脇に立てられたものではなく、神殿の建物内に置かれていたのではないかと思います。また、第8塔門より南側は工事が続いていて観光客は立ち入ることができないため、現地を訪れることは断念しました。


赤の祠堂のレリーフ写真43:オベリスクを奉納するハトシェプストの浮彫り
ハトシェプストは男性の王として左側に描かれている

●赤の祠堂 「赤の祠堂」は1997年にアメン大神殿の付属施設の野外博物館の施設の一つとして修復されました。その壁面には、以前ルクソール美術館に展示されていた「オベリスクを奉納するハトシェプストの浮彫り」の石材があります。このため、2017年にはアメン大神殿に付属する野外博物館を訪れ、「赤の祠堂」を見てきました。
 新たな石材を補って修復されている部分が多いのですが、このレリーフの石は赤の祠堂の正面に向って右側の外壁の上の方にありました。残念ながら、撮影した時間が悪かったものか、ルクソール美術館に展示されていた頃の写真ほどには鮮明には見ることが出来ませんでした。
 野外博物館はの場所はやや分かりにくく、見落としがちです。おおよその場所は第1中庭の北側になります。アメン大神殿の第1中庭、トトメス3世のオベリスクの断片が置いてあるところの北側に、神殿の外に出る出口があります。そこを通るとチケット売り場があり、その奥に赤の祠堂が見えます。アメン大神殿とは別にチケットを買う必要があります。

撮影メモ:
 2008年に訪れた時には多くの観光客で混み合っていたアメン大神殿ですが、2014年に再訪したときには団体観光客は1組しか来ておらず、他にはガイドを雇った欧米と日本の個人旅行者が数組居るだけの閑散とした状態でした。掲載してある写真はいずれも真昼に撮影したものですので、いかに観光客が少ないかが実感できると思います。写真をゆっくりと落ち着いて撮ることができて好都合でしたが、革命後のエジプトの観光客の激減ぶりは想像以上でした。


共同著作・編集: 長瀬博之 nag2jp@ gmail.com、岡本正二 shoji_okamoto31@yahoo.co.jp