オベリスク全リストへ戻る
大きな地図で見る

カイザリアのオベリスク

現在地:  イスラエル、カイザリア、東競技場跡地
北緯
32°29′55.1″(32.498647) 東経34°53′55.0″(34.898606)
創建王:  エジプト・アスワン産の石材を使って、カイザリア人が制作したものと推測
高さ:  オベリスクのみ 10.5 メートル
台座 1.4 メートル
(発掘時、全長 14m以上という記録もある)
重さ:  推定 80~100 トン
石材:  赤色花崗岩

場所について:
 カイザリア(Carsarea)は紀元前 30年ごろにヘロデ大王(Herod the Great、在位 紀元前 37 - 紀元後 4年)によって、現在のイスラエル(当時のガラリヤ地方)の地中海に面して建設された港湾都市です。
 当時ガラリヤと呼ばれたこの地域は、ユリウス・カエサルが暗殺された紀元前 44年の直後にヘロデ大王の支配地となり、ヘロデ大王はローマの元老院からユダヤ王として公認されていました。その後紀元 6年にこの地域はローマ帝国が直接支配する属州となり、カイザリアはユダヤ属州の都として栄えました。7世紀にイスラム教徒に征服されてから衰退し、再び13世紀十字軍の時代に復活して要塞が築かれましたが、またすぐイスラムに征服されてしまいました。
 それらすべてが廃墟となり、地中海に面した地域が カイザリア国立公園 となっていまして、いまのカイザリアの町は少し北にあり、電車の駅は内陸部にあります。
 目指すオベリスクはカイザリア国立公園の入口の東側 500mほどのところにある長方形の東競技場(Eastern Circus)跡地に立っています。

カイザリア国立公園の入口 カイザリア国立公園の入口

 カイザリア国立公園の面積はかなり広く、ローマ帝国時代の港の跡や、円形劇場や水道橋などの遺跡が残されており、円形劇場のようにいまでも使用可能な状態に整備されている所がある反面、放置されてかなり荒れ果てている遺跡も目立ちます。海岸は整備されていてリゾート地の雰囲気です。さらにレストランや商店もあるので、筆者は中途半端な印象を抱きました。
 Caesarea は日本語では通常「カイザリア」と表記されることが多いようですが、他に「カイサリア」「カエサレア」「カエサリア」「カイサリエ」「カイサレイア」「ケサレア」と表記されることもあり、いまだ定着していません。
 また、シリアにも「Caesarea」という町があります。それと区別して、こちらは「カイザリア・マリティマ」(Caesarea Maritima、海沿いのカイザリアという意味)、「カイザリア・パレスティナエ」(Caesarea Palaestinae、パレスチナのカイザリア)、「ヘロディアン・カイザリア」(Herodian Caesarea。ヘロデ王のカイザリア)と呼ばれます。その場合、シリアの方は「カイザリア・フィリッピ」(Caesarea Philippi)と呼ばれます。

オベリスクへのルート (上)公園正面ゲートから6511号線を東へ
ここが『未舗装道路の入口』
(下)これが携帯電話の基地局


行き方:
 まずイスラエル国鉄(Israel Railways)でカイザリア国立公園に向かいます。オベリスクに最も近い駅はビニャミナ駅(Binyamina)で、イスラエルの首都テルアビブのサビドール中央駅(Savidor Center)からは快速利用で 32分です。各駅停車ですと 44分かかります。
 路線バスは本数が少ないのでビニャミナ駅から タクシー でカイザリア国立公園の入口に向かうのがいいでしょう。2014年8月の時点では料金は60シュケル(約 2,000円)でした。イスラエルの物価は非常に高いので、この程度は仕方ないかもしれません。
 上に述べたように、オベリスクはカイザリア国立公園の入口の東 500mほどのところにある「東競技場跡地」にありますので、カイザリア国立公園の入口(正面ゲート前)でタクシーを降りたら、まずは 6511号線を東に向かい、400mほど先の右側(南側)にある『未舗装道路の入口』から入って行きます。 左にその写真があります。
 なお、国立公園の入口までタクシーで行ってしまうと、『未舗装道路の入口』の前を通過した後に徒歩で戻ることになるのですが、始めて訪れてこの場所を探すのは難しいので、国立公園の入口から徒歩で捜しながら戻るのが確実です。また、流しのタクシーはありませんから、帰りはカイザリア国立公園の入口で職員に頼んでタクシーを呼んでもらうことになります。観光客は当然のように職員に頼んでいますので遠慮は要りません。

 なお、タクシーでなく 路線バス を利用するルートは二つありますので紹介します。
 まずは、上に述べたビニャミナ駅からの路線バス9系統。9系統は公園の目の前に行きませんので、Road 6511 Rothschild という停留所で降ります。9系統のバスは昼間は 30分間に1本程度運行されています。6511号線を 1kmほど西に向かえば国立公園の入口ですが、その手前、バス停から 600mほど先の左側(南側)に『未舗装道路の入口』があります。
 もうひとつは、ビニャミナ駅のひとつ手前の Caesarea-Pardes Hana 駅経由のルートです。同駅からは Kibuts Sdot Yam まで行く路線バス77系統があり、こちらのバスはカイザリア国立公園の入口の前(バス停の名前は Antique Center)まで行きます。しかし、2014年7月末に現地を訪れたときには昼間は1時間に1本程度運行されていたのですが、10月に調べた時には昼間の時間帯は運行されていませんでした。 ですから、こちらのルートは BUS.CO.IL というイスラエルのバスの情報サイトで、77系統の運行時刻を事前に確認してください。公園の入口からのルートは最初に述べたタクシーのルートと同じです

カイザリアのオベリスク遠景 東競技場跡地に建つオベリスク
枯れ草を掻き分けながら進むしかない


 『未舗装道路の入口』に看板などは立っていませんが、付近には右に入る道は無いので間違えることはないと思います。その道を 200mほど歩くと携帯電話の基地局のアンテナの鉄塔があります。さらに進むと基地局の左にオベリスクの先端が見えてきます。オベリスクへは基地局施設の手前の柵の横の通路を左に(東方向に)進みます。この基地局の鉄塔は円管柱でかなり高いのでカイザリア国立公園からも見えます。基地局の鉄塔がオベリスクのある場所の目印と考えておけばよいでしょう。
 基地局の手前からの通路は途中で途切れて、雑草が生い茂る空き地になります。先にオベリスクが立っていますので雑草を掻き分けながら進まなくてはなりません。ただ、まったく人が訪れていないわけでは無さそうで、人が分け入ったために獣道のように雑草が少ない所ができています。
 オベリスクの立っている辺りは長方形の空き地ですが、雑草は生えていなくて、土を掘り返したような跡がありましたので、春までは畑であったのかもしれません。筆者が訪れた夏には休耕地のようになっていたので、オベリスクまで近寄れましたが、季節によってはオベリスクは畑の中に立っていて近づけない可能性もあるわけです。ただ、Wikipedia 英文版の Caesarea obelisk の写真は 2007年の11月に撮影されたものですが、似たような感じに雑草が刈られていますし、この長方形の土地の中心にオベリスクが立っていることから、この土地は古代の競技場の遺跡として保護されていて、定期的に雑草が刈られている可能性もあります。

オベリスクについて:
 オベリスクの根元にはヘブライ語と英語で記述された簡単な説明板があります。それによりますと、オベリスクの立っている空き地は「東競技場(Eastern Circus)」跡とされています。カイザリアの町に建設されたふたつの円形競技場のうち、東側の競技場という意味です。果たしてローマ帝国の属州当時にこの名称であったのかどうかは分かりません。説明板によれば東競技場は紀元2世紀に作られ7世紀の初めまで使われていたとのことです。
 2世紀当時のカイザリアは古代ローマ帝国の属州で、ローマ人が支配していました。オベリスクは、この東競技場の中央のスピーナ(中央の分離帯)跡から発掘されましたので、ローマ人がスピーナに建てたものと推測されます。

カイザリアのオベリスク やっとたどり着きました

 長円形の競技場のスピーナにオベリスクを建てることが古代ローマでは通例になっていました。現存するオベリスクでは最大の ラテラン・オベリスク とポポロ広場の フラミニオ・オベリスク はローマのチルコマッシモ(大競技場)に建てられたものですし、バチカン・オベリスク はカリグラの円形競技場に建てられました。イタリア以外にもイスタンブールの トトメス3世のオベリスク、レバノンのティルスのオベリスク、アルルのオベリスク は円形競技場に建てられたものでした。

 このオベリスクに碑文はありません。石材はアスワンで採れる赤色花崗岩であることが分かっています。
 7世紀にこの地域がイスラム教徒によって支配されてカイザリアが廃墟と化してから 13世紀頃までの間、おそらくは早い段階(7世紀前半頃?)にオベリスクは倒壊したようです。
 1974年、カイザリア合同探検隊(The Joint Expedition to Caesarea Maritima)が東競技場を発掘調査しているとき、地中に埋まっている3つに割れたオベリスクを発見。最初はテルアビブにあるイスラエル博物館の敷地内に再建する計画がありましたが、最終的にはもとあった場所 ― カイザリアの東競技場跡地 ― に復元されることになり、イスラエル考古学庁(IAA)の保存部門(Department of Conservation)によって3個はチタン製のピンとエポキシ樹脂で接合され、欠けた部分はコンクリートで補修され、2001年6月18日に再建されました。
 このオベリスクの本体部分の高さは 10.5m、台座は 1.4mと言われています。しかし 1974年当時の発掘記録には全長 14m以上、重さ 80トン以上という記述もあります。

撮影メモ:
 カイザリア国立公園の職員はこのオベリスクの存在や場所について知っていますので、職員に聞けば教えてくれると思います。しかし人が訪れることはほとんどないでしょう。というか、人が訪れるための便宜がまったく図られていません。途中の道筋の案内板は一切無く、そもそもオベリスクのある空き地へのきちんとした道がありません。私有地を勝手に入り込んで行くしかないのです。もう少し整備されていても良さそうな感じもしますが、国立公園内の遺跡も発掘調査が続けられている状況なので、この遺跡も今後の調査を待つために、とりあえず保全されているのだと思われます。ひっそりと佇むオベリスクと言う点ではこのオベリスクに勝るものは無く、訪れたときには妙な達成感がありました。

caesarea_west.jpg
西面

caesarea_north2.jpg
北面

caesarea_east.jpg
東面

caesarea_south.jpg
南面

2014年8月18日 撮影:長瀬博之 (画像をクリックすると高解像度の画像が見られます)

共同著作・編集: 長瀬博之 nagase@obelisks.org、岡本正二 okamaoto@obelisks.org